はじめました。
千里南公園の記録ょ
上段<冗談>にかまえて・・
昼寝して、・・・・
はじめに
1.このブログの目的は、永年に亘り千里南公園を愛されてきた人々の記録を皆さんに知って貰いたい。
「きょうちゃん」の勝手な思いで、勝手に編集しました。
勿論、千里南公園の文化紹介の冊子をお作り頂いた方々には、ご賛同を得られると確信 しています。
資料(ネタ)と編集(思い)の方針
資料(ネタ)は、
4部あります。
1.千里南公園の文化紹介 29頁 冊子
2.吹田の都市計画 40頁 冊子
3.千里南公園の文化紹介 編集時の写真等々 約100枚
4.私が撮影した写真集(2008/4/26) 約150枚
編集(思い)の方針は
1.前記1.千里南公園の文化紹介 29頁 冊子 に沿って
2.写真の新・旧入替も
本音・・永年に亘り、「千里南公園を愛されてきた人々」の思いをそのままに残したい・・俗な言葉で言えば、「丸写し」・・でも、はたして、どうやろ/平成20年5月9日(金)
資料(ネタ)紹介
千里南公園の文化紹介
「丸写し」の原本です
この書の30頁
千里南公園の文化紹介 改題改訂版
発行:2007年(平成19年)5月
初版:2006.4
発行舎:千里南公園文化探訪実行委員会
責任者:彦坂 利久(委員長)
565-0862 吹田市津雲台5-7-18
企画:工藤昭太郎(副委員長)
編集:須貝 桃三(副委員長)
編集:西森 健生(実行委員長)
無断複製・転載を禁じます
資料(ネタ)の紹介 2
吹田の都市計画
発行:平成17年(2005年)2月
編集:吹田市 都市整備部 都市整備室
・公園は、吹田市にいくつあるのか
・吹田市のどこにあるのか
資料(ネタ)の紹介 3
きょうちゃんが撮った、最近の写真集
千里南公園が中心です
はじめに
第1回千里野外彫刻展に関連した野外彫刻展の経過
(太平洋セメント IR広報部より参考資料入手)
白色セメントを使った野外彫刻展は、戦後間もない1951年(昭和26年)に東京の日比谷公園で
第1回が始まり、1967年(昭和42年)の第1回千里野外彫刻展を含めて1973年(昭和48年)まで
毎年1回、計23回開催さました。
(小野田セメント「野外彫刻展」リスト:美術評論家、柳生不二雄氏の記述(書籍名不明)および
児玉由美子氏の論評『都市環境デザインへの提言』日刊建設工業新聞社発行による)
始まったきっかっけは、東京都からの戦後の荒廃したところに潤いを持たせようとの呼びかけに対して、白色セメントの需要拡大を目指そうと、当時の小野田セメント(現・太平洋セメント)が協賛したことによるものです。
第1回から第16回の1966年(昭和41年)までは日比谷公園で開催、1967年(昭和42年)には、大阪万国博のアピールのため千里ニュータウンで「第1回千里野外彫刻展」を開いています。
翌年から日比谷公園、神代植物園、北の丸公園と会場が移りましたが、1973年(昭和48年)
晴海での「建築とともにある彫刻展」を最後に計23回にわたる野外彫刻展は幕を閉じました。
この間、文化行政の一環としての他の彫刻展の原点になっているとも言われ、都市空間の
修景要素としての広がりに寄与しました。
後期になって用地難が生じ、白色セメントも用途開発が進んだなどで閉幕になったわけですが
開催のたびに小野田セメントが資材や資金の提供、作品の買い上げなど多くの援助をしたことで、
彫刻家に好評で、現在彫刻界で重鎮といわれる作者も育っています。
(以上は児玉の論評を要約)
第1回千里野外彫刻展(1967年:昭和42年)の出展作品が20点ほど、千里ニュータウン内の
各所に残されて往時の面影をとどめています。
千里南公園には、このうちの4点が建っています。
いしぶみ
昆 野 新 作 碑 NO3 (像は壊れてなくなり、台座だけが残っています)
松 村 外次郎 作 燈籠
綿 引 孝 司 作 間
新 谷 秀 雄 作 コステューム
・・・千里南公園の文化紹介 冊子 25頁・・・・・・
写真
綿 引 孝 司 作 間 昭和42年
2008年4月29日 撮影
千里南公園の記録ょ
上段<冗談>にかまえて・・
昼寝して、・・・・
はじめに
1.このブログの目的は、永年に亘り千里南公園を愛されてきた人々の記録を皆さんに知って貰いたい。
「きょうちゃん」の勝手な思いで、勝手に編集しました。
勿論、千里南公園の文化紹介の冊子をお作り頂いた方々には、ご賛同を得られると確信 しています。
資料(ネタ)と編集(思い)の方針
資料(ネタ)は、
4部あります。
1.千里南公園の文化紹介 29頁 冊子
2.吹田の都市計画 40頁 冊子
3.千里南公園の文化紹介 編集時の写真等々 約100枚
4.私が撮影した写真集(2008/4/26) 約150枚
編集(思い)の方針は
1.前記1.千里南公園の文化紹介 29頁 冊子 に沿って
2.写真の新・旧入替も
本音・・永年に亘り、「千里南公園を愛されてきた人々」の思いをそのままに残したい・・俗な言葉で言えば、「丸写し」・・でも、はたして、どうやろ/平成20年5月9日(金)
資料(ネタ)紹介
千里南公園の文化紹介
「丸写し」の原本です
この書の30頁
千里南公園の文化紹介 改題改訂版
発行:2007年(平成19年)5月
初版:2006.4
発行舎:千里南公園文化探訪実行委員会
責任者:彦坂 利久(委員長)
565-0862 吹田市津雲台5-7-18
企画:工藤昭太郎(副委員長)
編集:須貝 桃三(副委員長)
編集:西森 健生(実行委員長)
無断複製・転載を禁じます
資料(ネタ)の紹介 2
吹田の都市計画
発行:平成17年(2005年)2月
編集:吹田市 都市整備部 都市整備室
・公園は、吹田市にいくつあるのか
・吹田市のどこにあるのか
資料(ネタ)の紹介 3
きょうちゃんが撮った、最近の写真集
千里南公園が中心です
はじめに
第1回千里野外彫刻展に関連した野外彫刻展の経過
(太平洋セメント IR広報部より参考資料入手)
白色セメントを使った野外彫刻展は、戦後間もない1951年(昭和26年)に東京の日比谷公園で
第1回が始まり、1967年(昭和42年)の第1回千里野外彫刻展を含めて1973年(昭和48年)まで
毎年1回、計23回開催さました。
(小野田セメント「野外彫刻展」リスト:美術評論家、柳生不二雄氏の記述(書籍名不明)および
児玉由美子氏の論評『都市環境デザインへの提言』日刊建設工業新聞社発行による)
始まったきっかっけは、東京都からの戦後の荒廃したところに潤いを持たせようとの呼びかけに対して、白色セメントの需要拡大を目指そうと、当時の小野田セメント(現・太平洋セメント)が協賛したことによるものです。
第1回から第16回の1966年(昭和41年)までは日比谷公園で開催、1967年(昭和42年)には、大阪万国博のアピールのため千里ニュータウンで「第1回千里野外彫刻展」を開いています。
翌年から日比谷公園、神代植物園、北の丸公園と会場が移りましたが、1973年(昭和48年)
晴海での「建築とともにある彫刻展」を最後に計23回にわたる野外彫刻展は幕を閉じました。
この間、文化行政の一環としての他の彫刻展の原点になっているとも言われ、都市空間の
修景要素としての広がりに寄与しました。
後期になって用地難が生じ、白色セメントも用途開発が進んだなどで閉幕になったわけですが
開催のたびに小野田セメントが資材や資金の提供、作品の買い上げなど多くの援助をしたことで、
彫刻家に好評で、現在彫刻界で重鎮といわれる作者も育っています。
(以上は児玉の論評を要約)
第1回千里野外彫刻展(1967年:昭和42年)の出展作品が20点ほど、千里ニュータウン内の
各所に残されて往時の面影をとどめています。
千里南公園には、このうちの4点が建っています。
いしぶみ
昆 野 新 作 碑 NO3 (像は壊れてなくなり、台座だけが残っています)
松 村 外次郎 作 燈籠
綿 引 孝 司 作 間
新 谷 秀 雄 作 コステューム
・・・千里南公園の文化紹介 冊子 25頁・・・・・・
写真
綿 引 孝 司 作 間 昭和42年
2008年4月29日 撮影
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