11月17日投開票の兵庫県知事選で再選した斎藤元彦氏(47)をめぐって、公職選挙法違反にあたる“運動買収疑惑”が浮上している。発端となったのは、兵庫県西宮市に本社をおくPR会社「株式会社merchu(メルチュ)」の...
女性自身-
◆10/30 水 朝刊
(政界変動)経済対策、国民と協議へ 「部分連合」も視野 政権方針
被災の女川2号機、再稼働 半島に立地 避難計画に懸念
選択的別姓、4度目勧告 皇室典範の改正も 国連女性差別撤廃委
折々のことば:3249 鷲田清一
自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。 (石原吉郎)
(天声人語)秋霜烈日のバッジはいま
季節の目安である二十四節気で、いまは霜降(そうこう)である。降りた霜の冷たさから「秋霜(しゅうそう)」という言葉には、刑罰や権威のおごそかなことという意味がある。検察官のバッジは秋霜烈日と呼ばれ、自らを律して職にあたる気概と理想の象徴となってきた。それに大阪地検の元トップが泥をぬった▼▼▼▼▼検察の役割は犯罪を明らかにすることだ。だが組織の中枢に加害者がいた。被害者がいた。その深刻さを真摯(しんし)に受け止める。泥まみれのバッジの輝きを取り戻すには、まずはそこから始めるしかない。
★ (しつもん!ドラえもん:5245)かいしゃ編
東京証券取引所(とうきょうしょうけんとりひきじょ)では、会社(かいしゃ)が上場(じょうじょう)した当日(とうじつ)にあるものを鳴(な)らしてお祝(いわ)いするよ。何(なに)かな。
★ こたえ
鐘(かね)を鳴(な)らす
上場(じょうじょう)を祝(いわ)うセレモニーだ。穀物(こくもつ)が豊(ゆた)かに実(みの)ることを五穀豊穣(ごこくほうじょう)と言(い)って、それにちなんで社長(しゃちょう)や取締役(とりしまりやく)が5回(かい)鐘(かね)を鳴(な)らすのが習(なら)わしだよ。
撮影忘れ ▼
◆10/30 水 夕刊
国内唯一の金山、価格高騰は好機 品質世界有数、鹿児島・菱刈鉱山
同性婚認めず、東京高裁も「違憲」
首相指名めぐり立憲と維新が協議
皇室典範めぐる勧告、林長官「遺憾」
素粒子 国連に言われたくないって? 大丈夫。我が首相も3カ月前に言ってる。選択的夫婦別姓をやらないのは「家族が崩壊するとか、よくわからない理屈」と。
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部下の検事への準強制性交罪に問われた元検事正。口止めの理屈が「地検が機能しなくなる」とは。個人より組織。そうやって生きてきた人の、なれの果て。
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衆院選で女性議員が最多、73人に。ようやく、やっと15%台。
◆(耕論)武道はスポーツですか 末永真理さん、増田俊也さん、内田樹さん
柔道が五輪種目に採用されて60年。剣道や空手、合気道なども世界に広がっている。国際化する武道には、こんな問いが付きまとってきた。武道はスポーツなのか。武道とは何なのか。
■ガッツポーズ慎む精神性 末永真理さん(剣道家)
剣道が五輪種目だったら私の人生は違っていただろうな、と思います。今年7月、イタリアであった世界剣道選手権大会で、日本勢は男女ともに団体優勝、個人戦も男女とも1~3位を独占したのですが、直後のパリ五輪とは注目度や報道のされ方があまりに違いました。正直、五輪がうらやましかったです。
子どもたちに教えていると、世間の注目やプロ選手の存在は、わかりやすい目標なのだと感じます。武道は、ただ試合に勝つことや単なる強さを求めるものではないのですが、そうした精神性を子どもに説いてもまだ十分には理解できません。私も小学校時代はわかりませんでした。
剣道にはスポーツと武道の両面があると感じます。心技体を鍛え、努力をし、勝てば達成感がある。それは他のスポーツとも共通します。五輪を見ていると、勝利を決めて喜びを爆発させる選手たちを目にします。その気持ちは分かりますが、負けた相手の心情も考え、感情を抑えるのが武道なのだと思います。
私自身、全日本女子選手権で3回優勝しましたが、ガッツポーズをしたいとは思いませんでした。剣道ではガッツポーズをしたら一本が取り消されるのも理由ですが、それ以上に、優勝しても「めざす剣道にまだ到達していない」と再確認するからです。めざしているのは、見る人を感動させる剣道。思い切りよく、打つべき機会に打つ、美しく正しい剣道です。
一本にするには、竹刀を面や小手、胴などの打突部位に当てるだけでなく、充実した気勢や「残心(ざんしん)」などが必要とされます。残心とは、字のごとく「心を残す」こと。打って終わりではなく、打ち終えても次の備えをしっかりして、気をつなぐ。それがガッツポーズ禁止にもつながります。
こうした規定がわかりにくいのは理解できます。でも、ルールを簡単に、竹刀が打突部位に当たればよしとしたなら、それは剣道ではなくなってしまいます。
海外で剣道を指導すると、外国の人ほど武道の精神性を重視していると感じます。必ずしも「わかりやすさ」は求められていないのではないでしょうか。
女性の私は、パワーやスピードで男性や若い人に勝てないことがあります。しかし、道を極めれば、そうした違いを乗り越え勝てるようになるはずです。剣道の最高段位である八段に、まだ女性はいません。その境地をめざします。
(聞き手・岡田玄)
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すえながまり 1988年生まれ。剣道七段。2012、13年に全日本女子選手権連覇、22年も優勝。今年の世界選手権では女子2位。旧姓名は山本真理子。
■「固有の文化」の中身とは 増田俊也さん(作家・名古屋芸大客員教授)
柔道に対する海外選手たちの向き合い方に異議が沸騰し、五輪後にはいつもメディアの取材が増えます。技術と精神の両面で「日本古来の武道の柔道」が「スポーツJUDO」に蹂躙(じゅうりん)されているという指摘です。でもこれは見当違いです。
まず知ってほしいのは、現代の柔道は、「講道館柔道」という名の明治期にできた一流派が、世界に広まったものだということです。1882年、嘉納治五郎先生が、文明開化で消滅の危機だった古流柔術を習ったあとに創始しました。
嘉納先生は先進的な方でした。目指した柔道は当て身も包含し、空手やボクシングにも勝利できる技術体系です。パンチやキックで攻め合い、捕まえて投げ、最後は寝技で仕留める。まさに現代の「総合格闘技」です。「本来の柔道の技がJUDOに乱されている」という昨今の議論がどれだけ的外れかわかります。
パリ五輪の混合団体決勝で、阿部一二三選手がタックルのような技で投げられ、「レスリング柔道だ」と批判が起きました。しかし、あれは講道館柔道にある「肩車」という正式な技で、嘉納先生がレスリングの「飛行機投げ」から自ら取り入れた技なのです。
もちろん私も、研ぎ澄まされた投げ技中心の現代柔道は守るべき文化遺産と思っています。ただ五輪の度に「武道じゃない」「レスリングだ」と浅薄な議論を繰り返す現状を憂うのです。
「武道なのに精神性が軽視されている」という意見も起きます。ただ、武道とは何か、定義されているわけではありません。
以前、中学生の保健体育への武道必修化に際し、文部科学省に取材しました。学習指導要領の説明には「武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化」とあります。柔道や剣道は本当に日本固有の文化と言えるのでしょうか。中国武術や老荘思想の「道」の影響はないのか。「固有の文化」への納得のいく回答はありませんでした。
武道精神とは何か。日本の柔道家に聞いても、多分答えはバラバラでしょう。英国のラグビー選手や米国のバスケットボール選手が語るスポーツマンシップとどう違うのか。
「武道」は目に見えないものです。定義づけせぬまま語れば、海外の人にはなおさらわからない。「柔道は競技スポーツだが、同時に武道である」と日本柔道界が宣言し、世界に向け武道とは何か、わかりやすく発信する必要があります。
(聞き手・中島鉄郎)
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ますだとしなり 1965年生まれ。著書に「シャトゥーン ヒグマの森」「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」「七帝柔道記」など。
■「競わない」を無視の戦後 内田樹さん(武道家・思想家)
合気道の開祖・植芝盛平は戦中、合気道の殺傷技術としての有効性を評価した陸軍幹部から、合気道を軍で必修化したいという申し出を受けた時に、「それは日本人全員を鬼にするということである」と激怒したと伝えられています。
武道の技術自体は殺傷技術ですが、私たちはそれを実際に使うために稽古するのではありません。極限状態に身を置いても透明な心と体を保つため、そうした状況が設定されています。
江戸時代の禅僧沢庵は、兵法家は勝負を争わず、強弱にこだわらず、敵との相対的優劣を競ってはならないと教えています。禅の修行において、どちらが早く「大悟解脱」に至るかを競争する僧はいません。武道修行も同じです。武道修行の目的である「天下無敵」の境地に到達するレースを他人と競っているわけではありません。生涯をかけ、淡々と修行するだけです。
たしかに剣道や柔道では勝敗が競われます。では、武道はスポーツなのか、違うのか。これについては公式見解はありません。責任の一端は、旧文部省にあります。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は武道を禁止しました。武道が軍国主義イデオロギーの宣布に利用されたという理由からです。特に剣道が危険視されました。やむなく剣道は「しない競技」と名称もルールも変え、「武道ではなくスポーツ」として生き残りを図りました。しかし、占領が終わり、剣道が学校体育に復活したとき、旧文部省は「あれは方便で、実は武道はスポーツではなく、日本の伝統文化なのである」と公的に前言撤回をしませんでした。今に続く武道とスポーツの混同は、ここに始まります。日本人は「武道とは何か」という根源的な問いをネグレクト(無視)したまま、戦後80年を過ごしてしまった。
改めて確認しますが、武道の目的とは「天下無敵」という無限消失点をめざす行いです。他人と競うものでもないし、誰かに査定されるものでもない。
一方、スポーツは強弱勝敗巧拙を競うことで心身の可能性を開発する卓越したシステムです。スポーツが人類にもたらした貢献に、私は深い敬意を表します。でも武道とスポーツは別のもの。「瞑想(めいそう)世界一」とか「我執を去るコンテストで金メダル」とかいう文字列が無意味だということは誰でもわかるはずです。武道に競争もランキングもないというのは、そういう意味です。(聞き手・岡田玄)
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うちだたつる 1950年生まれ。合気道七段。神戸女学院大名誉教授。神戸市で武道と哲学の学塾「凱風館」を主催。「武道論」など著書多数。