講演会 2023年5月13日(土)午後2時~3時30分
@2階 講座室
「大坂の陣をめぐる武士の戦い、住民の戦い」
講師/宮本裕次氏(大阪城天守閣館長)
吹田市立博物館 講演会「大坂の陣をめぐる武士の戦い、住民の戦い」申込フォーム
このたびは上記講演会にお申し込みいただきましてありがとうございます。抽選の結果当選となりました。次の通り、申込者全員、ご参加ください。
なお、参加できなくなったときには、博物館までご連絡ください。
・最寄りのバス停留所は、佐井寺北、五月が丘、岸部、五月が丘西(下車徒歩約10分)、紫金山公園前(下車徒歩約5分、1時間に1便)となります。
・車でのご来館は、五月が丘方面からお越し下さい。
問い合わせ先
吹田市立博物館
電話:06-6338-5500
FAX:06-6338-9886
「130502 吹博 行基展 垂水・江坂を歩く」
「MVI 5573通天閣の歌姫はいま!平成27(2015)年6月12日(金)」
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小畑成則 commented on your video
Comment: 叶麗子さんですね😅ごめんなさい‼️芸名が沢山有り間違えてしまったスン
マソン😅
オーロラ輝子モデル「通天閣の歌姫」 心の病からの再起
西本ゆか
頭に通天閣の電飾を輝かせ、舞台に倒れ込む派手なパフォーマンスで1996年、NHKの朝ドラ「ふたりっ子」に登場する「オーロラ輝子」のモデルとなった演歌歌手、叶麗子さん(58)。過酷な運命で心身を病み、一時は死をも考えた「通天閣の歌姫」は、つらい日々から抜け出して、再び未来へ歩き出そうとしています。過去の絶望も未来への希望も、すべて語ってくれました。
かのう・れいこ 1963年、奈良県生まれ。85年、盆踊りのカラオケ大会でスカウトされ90年、通天閣歌謡劇場を本拠地に「通天閣人情」でレコードデビュー。講演も行い、著書に「心 お母ちゃん、生んでくれてありがとう」(青幻舎)。
歌う場所、歌える心身、愛する家族。人生で大切なものを次々と失った私は2018年春、外界とのすべての接触を断って引きこもり、生きる屍(しかばね)のようでした。息はしている、体は温かい。でも心は死んだも同然。いっそ死ねたらどんなにいいか。そんなことばかり考えていました。
発端は母の死です。
盆踊りののど自慢大会でスカウトされた私は全く売れず、ドサ回りの極貧生活で母には心配のかけ通しでした。初めてできた居場所が大阪・通天閣の地下劇場です。心優しいおっちゃんたちが、額に汗して働いた大切なお金で、私の歌を聴きに来てくれる。「通天閣の歌姫」と呼ばれ、1996年にはNHKの朝ドラ「ふたりっ子」に登場する「オーロラ輝子」のモデルになりました。
叶えてあげられなかった母の夢
私の「紅白出場」は母の長年の夢でした。でもその年の大晦日(みそか)、晴れ舞台で歌ったのは輝子役の河合美智子さん。私はゲストにも呼ばれなかった。生まれて初めて大好きな紅白を見ませんでした。それでも諦めず、「いつかは紅白」と励まし続けてくれた母が2007年、病であっけなく逝ってしまった。「孫の顔」も、母のひそかな夢であったと知っています。私はどちらも叶(かな)えてあげられなかった。悲しくて申し訳なくて、泣きました。
母の死をひきずる私に追い打ちをかけたのが4年後の東日本大震災。3月11日は私の誕生日なのです。生きているのが苦しく、睡眠薬を大量に飲んだのは4月7日の夜更け。なのに24時間寝て、目が覚めてしまった。ふらつく頭で実家に電話をすると妹が出て、父は風呂だと言います。「もう1時間になる。見てくるわ」。父は湯船で死んでいた。私は電話口でへたり込みました。入浴中の心不全でしたが、私の身代わりになったとしか思えない。急に怖くなりました。再び死のうとすれば、きっとまたひどいことが起こる。私はもう、自分で死ぬことも許されないのだと。
それでも、私には通天閣に会いに来てくれるおっちゃんたちがいた。気力を振り絞り、歌い続けましたが13年6月、その「通天閣歌謡劇場」が時代の趨勢(すうせい)で閉鎖され、壊れかけていた私の心への最後の一撃となりました。新劇場の新設計画もあったが頓挫し、道頓堀にできた新たな歌謡劇場に出ましたが、そこはやはり、母に支えられ歌い続けた私のホーム「通天閣」ではなかったのです。
私の中で何かがぶちっと切れた
15年暮れ、40度近い熱が出ました。原因不明で下がらない。年が明けると20年飼った猫が死に、私の中で何かがぶちっと切れました。高熱が続き、慢性気管支炎で夜も眠れず、先天性の股関節脱臼も悪化して歩けば激痛。3月のトークショーではついに立ち上がれず、座ったまま歌いました。「終わったな」。その仕事を最後に私は「叶麗子」を封印し、麗子につながる一切の連絡を断ち切って、家も心も扉を固く閉ざしました。
心療内科での診断名は「うつ」。ほぼ寝たきりで天井を見上げ、死にたいとばかり願いました。高校時代の親友から10年ぶりの電話があったのはそんな日々が2年続いた18年3月、55歳の誕生日。「ゆき、元気してる?」。私の本名は友紀子。親しくこの名で呼ばれなくなり、どれほどの歳月がたっていたか。涙があふれました。気付けば堰(せき)を切ったように今までのすべてを話していた。
彼女もまた、重い病や身内の不幸で、容易な人生ではありませんでした。そんな彼女が、底抜けに明るい声で言うのです。「ゆき、つらい時は思い切り泣いて、笑おうね。心から笑える日がきっとくるよ」
毎日、電話で話すようになりました。高校時代の話を飽きもせず。やがて思い出したのです。1人では抱えきれぬほどの悲しみや苦しみを知ったのは、すべて「叶麗子」になってからだということを。皆に支えられ、やっと立っている、そんな麗子が身を振り絞り歌ったからこそ、心通じ合う無上の喜びも知ることができたのだと。そして気付きました。叶麗子は、通天閣の地下で肩を寄せ合う人々の不器用な愛で育てられた、世界一幸せな歌手であったことを。
大勢の受刑者たちと交わした約束
薬では引かなかった熱が下がり始めたのはこのころです。とはいえ心身ともに不安定で、足がひどく痛む日も、家を出るのが怖くなる日も今もある。それでも私は、一度は固く閉ざした扉を開けたいと思うようになりました。長年続けた刑務所の慰問で、大勢の受刑者たちと交わした約束があるからです。
それぞれの過去を背負う彼らに、私は必ず言いました。「家族がいない、帰るところがない方は、通天閣で叶麗子が待ってるからね」と。実際に出所後、通天閣を訪ねてくれた人も大勢います。でも、地下劇場は既にない。私まで存在を消してしまったら、彼らが迷ってしまうじゃないですか。
こんな私の人生も、誰かを支え、励ます役に立つかもしれない。麗子は歌で語ってきたが、今の私は昔のようには歌えないから、これからは私が歩いてきた道を言葉で語りたいと思っています。望まれれば1曲2曲、心を込めて歌えるように体も鍛えて。もう一生分泣いたから、そんな新たなステージの扉を、今度は笑顔で開きたい。それが叶(かな)えられた時、麗子と友紀子は今度こそ本当に一つになって、歩き出せると思うのです。(西本ゆか)
201803031827 昔のくらしと学校 東山田小学校
◆ ◆ ◆ ◆ 令和5年5月16日(火) 記 ◆ ◆ ◆ ◆
余談もええとこ
➀ 吹博へ行く前に NHK TV 武田 信玄
11.15 武将温泉 武田信玄の強さの秘密
隠し湯の目的は?
➁ 行かねば 吹博へ 豊臣秀吉
・講演会
「大坂の陣をめぐる武士の戦い、住民の戦い」
講師 宮本裕次氏
➂ 何か、関係無いのかな 確か 秀吉は「有馬温泉」
Google 検索 武田 信玄 と 豊臣 秀吉
「武田信玄 豊臣秀吉 - 農林水産省PDFhttps://www.maff.go.jp>pdf>jizyojyokyo-532023/2/1 -全国建設研修センター「水とたたかった戦国の武将たち」 https://www.jctc.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/02/ehon1.pdf. 武田信玄. 豊臣秀吉.」((https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=1tru&fl=2&va=武田 信玄 と 豊臣 秀吉
水とたたかった戦国の武将たち ・・・ ??だったんだ!!
どうする 家康 は
※本稿は、牧野知弘『街間格差-オリンピック後に輝く街、くすむ街』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
都内には107の河川がある
東京の地図を広げてみて目立つのは、都内を流れる多くの川、縦横無尽に走る道路と鉄道、そしてその間に広がる住宅や商店、学校です。とりわけ目につくのは東京とは非常に「水」に恵まれた都市だということです。
東京都内には現在、一級河川として多摩川水系、利根川水系、荒川水系、鶴見川水系という4つの水系があり、この水系を中心に92の一級河川が展開しています。これに二級河川を含めると、都内にはなんと107もの河川が存在しているのです。延長距離は858kmにも及んでいます。
しかし東京の河川は、もとからこのような水系だったわけではありません。現在の水系が整ったのは1962年に新中川が完成したときであり、その完成をもって、今の東京の基本形ができあがったと言うべきでしょう。
江戸幕府を築いた徳川家康が入府したのは1590年(天正18年)ですが、当時の水系は渡良瀬川が直接江戸湾に流れ込んでいました。利根川も現在のように銚子に流れてはおらず、荒川と合流し、江戸湾へ流れ込んでいました。さらに隅田川は、入間川の最下流部分として位置付けられていたのです。
◆ 11.15 武将温泉 武田信玄の強さの秘密
隠し湯の目的は?
「太閤豊臣秀吉は如何に有馬温泉を愛したかhttp://alimali.jp>2016/12/09>hideyoshi-arimaonsen神戸電鉄有馬温泉駅から歩いてすぐのところにある「太閤秀吉像」と「太閤橋」。 そして、その向かい側にある彼の正室北政所をかたどった「ねね(寧々)像 ...」((https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=1tru&fl=2&va=秀吉は「有馬温泉」
日本書紀から紐解けるほど古い歴史を持つ有馬温泉には、歴史上の有名人物が数多く訪れている。
その中でも一際知名度の高い人物は「太閤」こと豊臣秀吉だろう。
神戸電鉄有馬温泉駅から歩いてすぐのところにある「太閤秀吉像」と「太閤橋」。
そして、その向かい側にある彼の正室北政所をかたどった「ねね(寧々)像」と「ねね橋」。
他にも、秀吉が祈って湯を沸かせた話に由来する「願い坂」、和尚の頭に似せた茶釜が伝えられる「善福寺」。
そして、秀吉の別荘である湯山御殿ゆかりの発掘品を見ることができる「太閤の湯殿館」など、秀吉にちなんだものは数多く有馬に遺されている。
その足跡を史料から辿り、太閤豊臣秀吉と有馬の関わりを紐解いていこう。
最初に彼が有馬の地を訪れたのは、天正7年(1579年)のこと。播磨別所氏の本拠三木城攻略に必要とする道普請を、当時は「郡」であった有馬の人々に実施させたという。
その後、別所氏当主長治が自害し、三木城が開城した天正八年(1581年 )の2月。秀吉は有馬温泉に浴し、城攻めによる疲労のため深く眠りこけたという。これが秀吉の有馬入湯に関する最古の記述である。(有馬地誌)
おそらくこの入湯がきっかけで、有馬の地に対して興味を抱いたのだろう。
その後信長が本能寺の変で斃れ、明智光秀や柴田勝家、徳川家康ら敵対勢力と争いを繰り広げている最中であっても、秀吉はしばしば有馬を訪れていた。
また、石川本願寺の元法主本願寺顕如、堺の茶人津田宗久、今井宗薫らのような当時の大人物も秀吉を見舞って入湯している。(貝塚御座所記、天正日記等)
更に天正十二年(1585年)2月。8年前の大火によって焼失した薬師堂復興のため、金子1500枚および地領百石の寄進を正室北政所(寧々)の願いによって実施したとある。(善福寺文書)
この際復興された薬師堂は明治の廃仏毀釈による被害を逃れ、温泉寺(有馬山 温泉禅寺)として現存している。秀吉の寄進がなければ、有馬の名所が一つ消えていたところであった。
特筆すべきは、天正十七年(1590年)9月に行われた「有馬大茶会(ありまだいさのえ)」だ。
同年2月に小田原北条氏を下し、7月に伊達政宗ら奥州の諸将への所領与奪を実行。名実ともに天下人となった秀吉は、金湯山蘭若院阿弥陀堂にて茶会を実施。
太閤秀吉の茶会といえば、これより3年前に京都北野天満宮で行われた「北野大茶会」が広く知られているが、この有馬大茶会もなかなかのものであったようだ。
秀吉と懇意であった茶聖千利休をはじめ、後に五大老となる小早川隆景、有馬郡出身の父を持ち、伏見城建築に貢献した有馬則頼(法印)など、錚々たる顔ぶれが参加したと記録されている。秀吉自身も愛用の銘茶器「鴫肩衝」をわざわざ持参しており、大層な力の入れようであったと思われる。(善福寺文書)
その後、慶長元年(1594年)には大がかりな別荘「湯山御殿」を建てさせるなどしたが、慶長三年(1596年)7月に発生した「慶長伏見地震」によって全壊。
有馬の湯屋や民家も大きな痛手を負い、温度が急激に上昇したため温泉を利用することができなくなってしまった。(湯山由緒紀)
この事態を重く見た秀吉は直ちに復旧を行うと同時に、一年間にも及ぶ大規模な改修工事に乗り出した。
災害などで泉源が破壊されることを防ぐため、松の丸太を組み合わせ、隙間に粘土を硬く詰め込むなどして厳重に保護。更にはすぐそばを流れていた六甲川の氾濫による被害防止のため、その向きを変えるなどした。(湯山由緒記)
これにより有馬の地が水難に苦しめられることはなくなり、泉源はその後350年間改修工事を行う必要がなかったという。
建築の名人である太閤秀吉の実力と、有馬への強い思いがうかがえるエピソードである。
それから1年後の慶長五年(1598)年3月、秀吉は病に斃れこの世を去った。
それより1ヶ月前、かつて復興に携わった薬師堂奥の院より新たな温泉「上の湯」が噴出し、「かねて薬師如来に願ったことが実現した」と入湯を楽しみにしていたようだが、ついに叶わなかったという。(湯山由緒紀)
その十七年後の慶長20年(1615年)、徳川氏によって豊臣氏は滅亡。
「なにわのことも夢のまた夢」という辞世句の如くその血脈は途絶えてしまったが、その功績は今もこの有馬において人々とともに存在し続けている。
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