吹田市立博物館 講演会
2階 講座室
5月7日(日曜) 午後2時~3時30分
「田能村竹田展と中西家の名品」
講師/関西大学文学部教授 中谷伸生氏
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南画:
南画(なんが)は、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。
南宗画は17世紀に明の莫是龍を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論『画禅室随筆』で流布した。即ち、禅に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠、夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対し、王維の画法渲淡(暈し表現)から始まり、董源、巨然、米芾、米友仁、元末四大家に連なる水墨、在野の文人・士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である[1]。
日本南画[編集]
日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年)(甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜』を独学し長崎派の河村若芝に添削指導を受け、柳沢淇園も長崎派の英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された。しかし、富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、冨田溪仙(1868年 - 1938年)、小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている。 池大雅の弟子桑山玉州は『絵事鄙言』で松花堂昭乗、俵屋宗達、尾形光琳も南宗に加え[2]中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ渲淡画様式を南画としてとらえている。南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品、逸格、「去俗」を重要視した。
流派・画家[編集]
主な流派と画家は次の通り。
- 日本最初期文人画 - 祇園南海・彭城百川・柳沢淇園ほか
- 池大雅派 - 池大雅・青木夙夜・野呂介石・桑山玉州・池玉瀾ほか
- 浦上玉堂派 - 浦上玉堂・浦上春琴・浦上秋琴・僧霞山ほか
- 貫名海屋派 - 貫名海屋・日根対山・野口小蘋ほか
- 中林竹洞派 - 中林竹洞・中林竹渓ほか
- 与謝蕪村派 - 与謝蕪村・呉春・紀梅亭ほか
- 田能村竹田派 - 田能村竹田・高橋草坪・帆足杏雨ほか
- 渡辺崋山派 - 渡辺崋山・椿椿山・野口幽谷・奥原晴湖・松林桂月ほか
- 谷文晁派 - 谷文晁・鈴木芙蓉・春木南湖・田崎草雲・小室翠雲・荒木寛畝ほか
- 日本最後期文人画 - 田能村直入ほか
- 他の諸派 - 高島北海・山岡米華・鈴木百年・羽様西崕など
注[編集]
- ^ 『画禅室随筆』巻二「禪家有南北二宗,唐時始分畫之。南北二宗,亦唐時分也,但其人非南北耳。北宗則李司訓父子。著色山水,流傳而為宋之趙幹、趙伯駒、趙伯粛,以至馬夏(馬遠と夏珪)輩。南宗則王摩詰(王維)始用渲淡,一變鉤斫之法,其傳為張躁、荊關(荊浩と関同)、郭忠恕、董巨(董源、巨然)、米家父子(米芾と米友仁。以至元之四大家(黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙),亦如六祖之后,有馬駒(以下略) http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%95%AB%E7%A6%AA%E5%AE%A4%E9%9A%A8%E7%AD%86/%E5%8D%B7%E4%BA%8C 」
- ^ 『絵事鄙言』二十四丁表「近衛公ノ戯墨惺々翁宗達光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ言ハンカ」
参考文献[編集]
◆文人画
文人画(ぶんじんが)とは、中国において職業画家の画(院体画)に対し、文人が余技として描いた絵画のことをいう。
中国[編集]
明代の画家・批評家である董其昌によって提示された区分。職業画家を技法のみに拘泥するものと批判し、画家の内面性・精神性が表現されている絵画を高く評価した。
董其昌によれば、院体画の系譜は北宗画(北画)とほぼ重なり、文人画の系譜は南宗画(南画)とほぼ重なる。この見解は中国絵画史に大きな影響を与えたが、董其昌の主張は対立する北宗画を攻撃する狙いもあり、その理論の組み立ては恣意的な点が多い。
彼の説明では、唐代の王維がその起源とされる。宋代に士大夫によって多く描かれ、元末四大家の頃に様式化が進んだ。董其昌は自らをこの系譜の上においている。
日本[編集]
日本には室町時代に伝えられ、江戸時代中期以降盛んになった。日本の文人画という意味で、南宗画を省略した「南画」という言葉が使われることもある。
初期の文人画の画人としては、祇園南海、柳沢淇園、彭城百川がいる。
江戸時代の文人画の代表者には、池大雅、与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山など。
明治時代以降は、美術界を主導するアーネスト・フェノロサや岡倉天心から低く評価され、富岡鉄斎や南画家の野口小蘋らが活躍するが、やがて衰退した
◆山水画
山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。
歴史[編集]
神仙や霊獣の住処としての山水表現は秦漢時代から盛んであった。泰山での封禅をはじめとする山岳信仰は、現在まで中国人の精神にひそみ、山水画が成立した原因の一つになっている。東晋の顧愷之の「画雲台山記」、劉宋の宗炳「画山水序」によると、霊地である名山を描いたり、山水画を鑑賞したりする習慣は、4世紀には成立していたようである。ただ、描写技術が進み独立した主題として愛好されるようになったのは、8世紀の呉道子が「山水の変」と呼ばれる改革を行ってからのようである。敦煌石窟の仏画の背景、発掘された墓室壁画、ある程度信頼できる模写本などから推定すると4世紀~7世紀の山水表現は「人は山より大きく、樹木は櫛の歯のようだ」という水準だったようだ。建築物とともに破壊されがちな壁画が中心であったせいもあって、唐朝の本格的な山水画は何も残っていないので、正倉院にある工芸的な作品や、仏教絵画の背景としての山岳(ボストン美術館蔵『法華堂根本曼荼羅』、敦煌石窟六十一窟『五台山図』)、唐墓壁画の一部を通して推測するしかない。
五代~北宋時代には、荊浩、董源、巨然、李成、范寛、郭熙など、その後千年間古典とされた山水画専門または山水画で有名な巨匠達が輩出し、従来、絵画の本流だった人物画をしのぐ状況となった。文人官僚が鑑賞する絵画として山水画が賞揚され、当時の指導的文化人たちが批評を書き、画家の社会的地位が上昇し、名画は高価で売買されていた。宮廷でエリートが集まる翰林院の壁画が山水画であったのは象徴的である。唐時代以前の宮殿の壁画は、聖人君子、功臣たちの肖像、教訓的逸話など人物画が中心であったからである。作品としては、范寛『渓山行旅図』(台北 国立故宮博物院)、郭熙『早春図』(台北 国立故宮博物院)、巨然『渓山蘭若図』(Cleveland Museum of Arts)がある。北宋時代の山水画は巨大な自然と微小な人事の対照を強調した作品が多い。南宋時代には、絵の中の人物が山水を鑑賞するという設定の作品が多くなり、また山岳を画面の一部にして空白部分を多くとる作品がでてくる。馬遠、夏圭が有名画家である。
14世紀、元時代、「専門画家ではない文人によって制作される山水画」という理念が成長した。元末四大家とされる、黄公望、呉鎮、倪雲林、王蒙の四画家は、それぞれ特色のある様式を確立しただけではなく、「非職業的画家、アマチュア画家が学ぶべき山水画の様式」を現実の作品として創造し、後世に絶大な影響を与えた。特に倪雲林は「心象風景としての山水画」を明確に提示した。紙本水墨淡彩という、技術的に容易で、アマチュアにも近づき易い手法も確立した。
明時代では、南宋時代の画風を受け継いだ画家が主に北京の宮廷に奉仕して、流派を形成した。浙江省出身の画家が多かったので浙派と謂われる。載進、李在などが有名である。一方、元末四大家の画風を発展させた官僚予備軍や学者からなる蘇州の画家たちも沈周に学んだ文徴明を中心に流派を作っており、呉派と呼ばれる。呉は蘇州の古名である。画家として沈周、文徴明、文徴明の子息や弟子たちが作品を残している。仇英、唐寅、周臣は蘇州で文徴明グループと交流していたが画風がやや異なり院派と呼ばれている。
明、清時代を通じ大量の山水画が制作されたが、十七世紀万暦~康熙時代には、変化に富む作品が制作された。その後20世紀までは停滞期であり、特色のない作品が多くなった。
編集工学研究所所長の松岡正剛は「中国の山水感、一番のルーツになるのは『神仙』という考え方である。当然そこには幻想動物の龍や鳳凰がいる場合もあれば、水そのものが生命の淵源という感覚があって、それが禅の日本への渡来と共に一緒にやって来た」と語る。
表現の解釈[編集]
漁師[編集]
山水画の中に数多く登場する漁師は文人の憧れる存在として、次のような意味をもつ[1]。
参考文献[編集]
ふで
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