朝 なのキナしに、TV SW on
昼から聴きに行く -関西大学 創立130周年記念事業 特別記念講演会 「食と健康」 @関大 千里山キャンパスBIG100- 阿川 佐和子(作家・エッセイスト)が 夜明けのスキャット 由紀さおり さんと
♪ あ~ あ~ う~ う~ ♪ ⇒ (落語 文珍さん あ~ う~ で がっぽり と 一番短い歌 (@_@))
由紀さん NHK 紅白 米国 ・・・ こりゃ 阿川さんの話術がたのしみだあ~
小泉先生 講演 40分 発酵はチカラなり
思い出すことを列記(全部は 不可能 巧みな和術 ) 138冊の本 24年間 日経に「食あれば楽あり」
雑誌 財界の表紙 酒創家に生まれる 福島県出身1943
東日本大震災 被爆地 35Km・・もう1Km 国の支援 どうにも ノーベル賞 大村さん 発酵菌の種類 納豆菌1/1000mm 岩波新書 人間の歴史より長い 36億年/46億年地球 んち1g 菌 9800万匹 広島大医学部で 「医食同原」を講義 北京大学 医学教育の15% 三風・・・・・・・・・・・・・・・・・・
対談
阿川さんのおじいさま 関大に在籍歴 最初 学長 開会の辞の際に紹介
ご本人は広島 東京 おじいさまの思い出は・・・大阪にいたことは間違いなし
阿川さんと小泉先生 息がぴったり 腹を抱(笑)えて 健康 うん○ うんちく 2時間がアットいう間
一汁3菜 和食は世界遺産
お土産話
中山道を歩いた時代の 食事 アゲ 豆腐 味噌汁 アブラゲ 食べて
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小泉 武夫小泉武夫 - Wikipedia
- 1943年 福島県小野町の酒造家に生まれる。
- 1966年 東京農業大学農学部醸造学科卒業
- 1976年 博士論文「酵母の生成する香気に関する研究」で東京農業大学より農学博士号を取得
- 1982年 東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授
- 1994年 財団法人日本発酵機構余呉研究所(滋賀県余呉町)所長
- 2009年3月 東京農業大学を定年退職、同大学名誉教授
- この間、鹿児島大学客員教授、別府大学客員教授を歴任。
人物[編集]
1994年4月から日本経済新聞の夕刊に連載しているコラム「食あれば楽あり」が好評を博している。コラム内では「小泉造語」といわれる独特の表現を多用、いずれも味わいがあり、食物の美味そうな様子が伝わる巧みな文章である。あだ名は「味覚人飛行物体」、「走る酒壷」、「鋼鉄の胃袋」、「発酵仮面」、「人間リカオン」、「ムサボリビッチ・カニスキー」。また大学ではその体格から「ドラえもん」と呼ぶ学生もおり(満更でもないらしい)バレンタインデーにはよくドラ焼きを貰うという。もちろんドラえもんの好物だからという意味だが、小泉自身の好物のひとつでもある。自宅の台所「食魔亭」で、様々な料理を供すこともある。またニュースステーションにも「食の快楽」という特集で度々出演して、久米宏、森永卓郎らとスタジオで舌鼓を打っていた。
2005年8月に江戸前の定義を規定した水産庁の『豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会』の会長を務めた、また『クジラ食文化を守る会』の会長でもあり、毎年、超党派の議員を50人程招いた鯨肉の食事会を行い、鯨肉を安価に流通させる為の補助金の増加を懇願している(『食で日本を立て直せ』129-130頁)。
漫画『もやしもん』の樹慶蔵のモデルになったとの説があるが、作者の個人サイトにて否定されている(小泉本人はモデルと発言[1] )。
東京農業大学を定年退職後はかねてから念願であった小説家になり、食品文化を題材とした時代小説を発表している。
著書[編集]
- 1982年に講談社現代新書で刊行した『酒の話』以来、文庫再刊などを入れると百数十冊になる、一部のみ記す。
- 『酒の話』(1982年12月 講談社現代新書)
- 『灰の文化誌』(1984年12月 リブロポート)
- 『匂いの文化誌』(1989年4月 リブロポート)
- 『発酵』(1989年4月 中公選書)
- 『日本酒ルネッサンス 民族の酒の浪漫を求めて』(1992年11月 中公選書)
- 『酒肴奇譚 語部醸児之酒肴譚』(1994年3月 中央公論社 / 1997年10月 中公文庫)
- 『語部醸児の粗談義 ぜんぶ魚のアラの話』(1995年4月 中央公論社)
- 『平成養生訓 諺に学ぶ生きる知恵』(1996年2月 講談社)
- 『銘酒誕生 白酒と焼酎』(1996年7月 講談社現代新書)
- 『「味覚人」飛行物体』(1997年9月 時事通信社)
- 『味噌、醤油、酒の来た道』(1998年2月 小学館ライブラリー)
- 『灰に謎あり』(1998年7月 NTT出版)
- 『酒に謎あり』(1998年10月 講談社 / 2004年8月 日経ビジネス人文庫)
- 『地球を快食する』(1999年4月 文藝春秋)
- 『粗談義』(1999年4月 中公選書)
- 『発酵』(1999年9月 中公選書)
- 『発酵食品礼讃』(1999年11月文春新書)
- 『日本酒百味百題』(2000年4月 柴田書店)
- 『納豆の快楽』(2000年7月 講談社 / 2006年12月 講談社文庫)
- 『漬け物大全 美味・珍味・怪味を食べ歩く』(2000年10月 平凡社新書)
- 『小泉武夫の世にも不思議な食の世界』(2001年7月 日本経済新聞社)
- 『憂国の情に駈られて』(2001年10月 東京農業大学出版局)
- 『蟒之記 』(2001年11月 講談社)
- 『食と日本人の知恵』(2002年1月 岩波現代文庫)
- 『FT革命』(2002年6月 東洋経済新報社)
- 『発酵する夜』(2002年6月 新潮社)
- 『食の堕落を救え!』(2002年6月 廣済堂出版)
- 『不味い!』(2003年5月 新潮社 / 2005年12月 新潮文庫)[2]
- 『くさいはうまい』(2003年7月 毎日新聞社 / 2006年7月 文春文庫)
- 『冒険する舌』(2003年11月 集英社インターナショナル)
- 『人間はこんなものを食べてきた 小泉武夫の食文化ワンダーランド』(2004年2月 日経ビジネス人文庫)[3]
- 『小泉教授が選ぶ食の世界遺産 日本編』(2004年6月 講談社 / 2007年5月 講談社文庫)
- 『我輩はビールである』(2004年8月 廣済堂出版)
- 『食の堕落と日本人』(2004年9月 小学館文庫 / 新版 2010年8月 東洋経済新報社 プレミア健康選書)
- 『小泉武夫 食のワンダーランド』(2005年1月 日本経済新聞社)
- 『くさいものにはフタをしない』(2005年4月 幻戯書房 / 2008年5月 新潮文庫)
- 『小泉式 食べ物養生訓108』(2005年5月 講談社+α文庫)
- 『地球を肴に飲む男』(2005年7月 講談社文庫)
- 『沈まないトマト 食の堕落で日本が危ない』(2005年7月 ジュリアン出版)
- 『ぶっかけめしの快感』(2005年1月 ビジネス社 / 2009年5月 新潮文庫)
- 『美味巡礼の旅 味覚人飛行物体』(2005年11月 毎日新聞社)
- 『発酵は錬金術である』(2005年11月 新潮選書)
- 『発酵レストラン』(2005年12月 マガジンハウス)
- 『旅せざるもの食うべからず』(2006年3月 光文社)
- 『菌が地球を救う!』(2007年9月 宝島社
- 『ニッポン快食紀行 美味はスゴイ!』(2008年5月 小学館文庫)
- 『キムチの誘惑 神秘の発酵食をめぐる韓国快食紀行』(2008年5月 情報センター出版局)
- 『いのちをはぐくむ農と食』(2008年7月 岩波書店)
- 『わが輩は発酵仮面である!』(2008年11月 東洋経済新聞社)
- 『発酵美人』(2009年6月 メディアファクトリー)
- 『食で日本を立て直せ』(2009年6月 ソニーマガジンズ トレビズ選書)
- 『鯨は国を助く』(2010年4月 小学館)-資料協力、日本鯨類研究所
- 『カイチュウ博士と発酵仮面の「腸」健康法』(2010年5月 中経出版)※藤田紘一郎共著
- 『発酵食品の魔法の力』(2010年5月 PHP新書)
- 『食の堕落と日本人 新版(プレミア健康選書)』(2010年8月 東洋経済新報社)
- 『絶倫食』(2010年8月 新潮社 / 2013年1月 新潮文庫)
- 『食は知恵なり 自然のちから 親子で学ぼう!美味しさの秘密がわかる本』(2010年11月 日テレムック)
- 『日本全国納豆博覧会』(2010年12月 東京書籍)
- 『「食魔亭」日録 小泉武夫の胃袋を覗く』(2011年6月 祥伝社)
- 『一度は食べたい美味いもの漫遊記』(2011年6月 中経の文庫)
- 『発酵人小泉武夫のうまいもん!くさっ!美味の巻(ぐる漫)』(2011年9月 少年画報社)
- 『賢者の非常食』(2011年10月 IDP出版)
- 『すごい和食(ベスト新書)』(2011年11月 ベストセラーズ)
- 『こころをよむ 食べるということ 民族の食文化』(2011年12月NHK出版)
- 『食べもの日本地図鑑(ちず+ずかん=ちずかんシリーズ)』(2012年3月 平凡社)
- 『発酵食品学(KS農学専門書)』(2012年4月 講談社)
- 『小泉武夫のほんとうに美味しい話 愛蔵特選』(2012年7月 海竜社)
- 『食で日本一の孫育て 虎の巻』(2012年9月 マガジンハウス)
- 『いのちと心のごはん学』(2012年11月 NHK出版)
- 『小泉武夫のミラクル食文化論』(2013年4月 亜紀書房)
- 『土の話』(2013年3月 石風社)※イラスト:黒田征太郎
- 『すべてがわかる!発酵食品辞典(食材の教科書シリーズ)』(2013年6月 世界文化社)
- 『缶詰に愛をこめて』(2013年11月 朝日新聞出版)
- 『いきいき・ビンビン 和食生活のすすめ』(2013年12月 東京堂出版)
- 『発酵はマジックだ』(2014年11月 日本経済新聞社)
- 『小泉武夫のチュルチュルピュルピュル九州舌の旅』(2014年12月 石風社)※松隈直樹共著
- 『絵でわかる麹のひみつ (KS絵でわかるシリーズ)』(2015年2月 講談社)※おのみさ 絵 レシピ
- 『小泉武夫 食のベストエッセイ集』(2015年3月 IDP出版)
- 『くさい食べもの大全』(2015年3月 東京堂出版)
食あれば楽ありシリーズ[編集]
- 『食に知恵あり』(1996年9月 日本経済新聞社 / 2002年12月 日経ビジネス人文庫)
- 『食あれば楽あり』(1999年6月 日本経済新聞社 / 2003年7月 日経ビジネス人文庫)
- 『食に幸あり』(2002年10月 / 2005年2月 日経ビジネス人文庫)
- 『小泉武夫の料理道楽食い道楽』(2008年2月 日経ビジネス人文庫)
- 『小泉武夫の美味いもの歳時記』(2008年12月 日経ビジネス人文庫)
- 『小泉武夫の快食日記 食あれば楽あり6』(2011年2月 日本経済新聞社)
怪食紀行シリーズ[編集]
- 『アジア怪食紀行 「発酵仮面」は今日も行く』(2001年4月 徳間書店 / 2004年1月 光文社 / 2005年3月 光文社知恵の森文庫)
- 『中国怪食紀行 我が輩は「冒険する舌」である』(2003年2月 光文社知恵の森文庫)
- 『地球怪食紀行 「鋼の胃袋」世界を飛ぶ』(2005年3月 光文社知恵の森文庫)
小説[編集]
- 『夕焼け小焼けで陽が昇る』(2013年3月 講談社文庫)
- 『猟師の肉は腐らない』(2014年7月 新潮社)
阿川 佐和子
阿川佐和子 - Wikipedia
作家阿川弘之の長女として東京都に生まれる。幼少期(2歳)の1年間は広島市の伯母宅で育った[1]。その後、東京の中野区鷺宮、新宿区四谷へと移る。
東洋英和女学院中学部・高等部を経て、慶應義塾大学文学部西洋史学科卒業。卒業後は織物職人を目指し、様々なアルバイトを経験する。
1981年(昭和56年)、『朝のホットライン』でリポーターを務めたことを皮切りに、1983年(昭和58年)より報道番組『情報デスクToday』のアシスタントを、1989年(平成元年)からは『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターを務めた。1992年(平成4年)米国ワシントンへ渡り、帰国後『報道特集』のキャスターとなる。
報道キャスターとして硬派な報道番組に出演し続けていたが、1998年(平成10年)、討論型バラエティー番組『ビートたけしのTVタックル』で進行役に就任。ビートたけし、大竹まことという強烈な個性を持つ共演者によって、バラエティタレントとしての才能も引き出されるようになり、以降、バラエティ番組に出演する機会が増える。
2012年(平成24年)1月20日、エッセイ『聞く力』(文春新書)を上梓[2]。同書はトーハン発表の「2012年年間ベストセラー」総合1位を記録した[3]。また「2013年年間ベストセラー」においても総合3位を記録した[4]。
2015年(平成27年)3月15日には、博物館明治村の4代目村長に就任し、初の女性村長となる[5]。
檀ふみ、安藤優子、平野レミと親交が深い。特に檀とは同じ慶應大学出身で、父親が有名作家同士であるなど共通点が多いことから親密であり、共著も多く、CMでも共演している。
エピソード[編集]
自身の名前の由来[編集]
「佐和子」という名前を名づけたのは父・弘之であるが、これは阿川家とは縁もゆかりもない「南佐和子」という女性の墓石から父が勝手に取ったものである。これは、兄・尚之の出生時、父が(なぜか)女の名前しか用意しておらず、男児誕生のしらせを受けて病院へ向かう道すがら、偶然通りかかった立山墓地(青山霊園の飛び地)の墓石の「南尚之」という文字が目に入り、この名前を拝借して尚之と名付けたため、次に生まれた佐和子も、同じ南家の墓石から名付けられた。2009年6月8日のNHK『わたしが子どもだったころ』にて、この「南家」の墓へ参る様子が放映された。なお、縁もゆかりもない墓石から命名されたことに関して、周囲からは「怖くない?」などと言われたが、自身は特にネガティブな感情はなく、むしろ「勝手に名前を貰って申し訳ない」という気持ちだったと語っている。
童謡「サッちゃん」[編集]
童謡「サッちゃん」の作詞者・阪田寛夫と佐和子の父である阿川弘之は友人関係にあり、鷺宮で互いの自宅もすぐそばだった。『週刊文春』での対談で、阪田はこの歌のモデルは阿川佐和子であると語っていたが、その後、実は佐和子ではなく「幼馴染の少し影のある少女“さちこ”が転園したときの思い出を書いた曲」であると言われたと、佐和子が発言している[6]。
新幹線のぞみ号の名付け親[編集]
新幹線のぞみ号の名付け親である。新型新幹線の名称決定委員に任命された際、鉄道好きの父・弘之から「日本国鉄の列車の名前は歴代すべて大和言葉でつけられてきた」とのアドバイスを受ける。候補に挙がった名前で大和言葉は「つばめ」しかなく、委員会の終盤に父の言葉とともに、最有力候補となっていた「希望(きぼう)」を大和言葉にすると「のぞみ」になることを述べ、最終的にこれが採用されることとなった[7]。
『TVタックル』[編集]
過去のお見合い相手の何人かは国会議員となっており、『ビートたけしのTVタックル』で再会することもしばしばであるという。同番組では、時に司会者のビートたけしや大竹まこと、さらには浜田幸一、三宅久之らパネリストを手玉にとっており、彼らも驚く発言が飛び出すこともある。なお、番組に於ける阿川の位置づけは「悪党党副総裁」である。
2010年(平成22年)11月1日の放送回で、同年9月に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件の映像公開問題について消極的な政府対応に言及し、「表向きには穏便にって言っといて、YouTubeに流せばいいのに」と発言。放送されて3日後の11月4日に尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件が発生した。
幻の『男女7人夏物語』出演[編集]
2013年(平成25年)6月22日にフジテレビで放送(関西テレビでは6月15日に放送)された『さんまのまんま』にゲストとして出演した阿川が語ったところによると、明石家さんまが主演したドラマ『男女7人夏物語』で主要登場人物7人のうちの1人を俳優以外から選ぶ方針があり、その人選の中で阿川もまた出演者の候補として挙げられていた。しかし放送当時、阿川は報道系番組『情報デスクToday』に出演していたこともあり、事務所が阿川本人に無断で出演の話を断ってしまい、後にその事実を知らされた阿川は幻のドラマ出演をとても残念がった。なお、その役は小川みどりがつとめた[8]。
その他[編集]
2006年5月7日フジテレビ『スタ☆メン』という日曜日夜の情報番組の生放送(この日の特集のテーマは「少子化大国ニッポン!」)で阿川が「……やっぱり産んでおけば良かった。私の世代はデキちゃった婚はなかったから……」と言ったら、橋下徹(タレント、弁護士)が「阿川さん、今のボクなら絶対一発で命中させることが出来ますよ!」と言った[9]。テレビの生放送に慣れた爆笑問題ですら呆れ返り「ハシモト! 完全なセクハラだぞ」「弁護士なら酒場でも言うことじゃない!」とツッコミをかぶせて異様な空気を収拾した[9]。
受賞歴[編集]
- 1999年(平成11年) - 『ああ言えばこう食う』(檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞を受賞。小説『ウメ子』で坪田譲治文学賞を受賞。
- 2008年(平成20年) - 『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。
- 2014年(平成26年) - 菊池寛賞を受賞[10]。
家族・親族[編集]
阿川家[編集]
由紀さおり
由紀さおり - Wikipedia
安田章子としてデビュー[編集]
群馬県桐生市に生まれ、3歳で横浜市へ移る。少女時代から姉の安田祥子と共に本名の「安田章子」名義で童謡歌手として活躍。1965年にキングレコードから本名名義で「ヒッチハイク娘」にて歌謡曲の歌手としてデビューするが、ヒットに恵まれず停滞の時代に入る。童謡歌手時代からの仕事であるCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行の意味合いもあったキャバレー・ナイトクラブへの出演を行いながら雌伏の時を過ごす。
由紀さおりとして再出発[編集]
1969年、東芝音楽工業(現・ユニバーサル ミュージック EMI Records Japanレーベル)より再デビュー作となった「夜明けのスキャット」が発売される。元々TBSラジオの深夜ラジオ番組「夜のバラード」のOPとして制作され、当初はレコード化の予定はなかったが、リスナーからの問い合わせが相次ぎシングルリリースが企画された。しかし由紀は歌手デビューに失敗した過去に対する懸念と自ら結婚を控えていた事情もあり再デビューに消極的だったが、新たに歌詞が書き下ろされる間にいずみたくらが説得してレコーディングが実現した[3]。大ヒットとなった「夜明けのスキャット」は、最終的には150万枚[4]のミリオンセラーとなり、この年の暮れには「第20回NHK紅白歌合戦」で念願だったNHK紅白歌合戦初出場を果たす(以降1978年・第29回まで10年連続出場)。
当時、新番組として準備されていた『サザエさん』のスタッフは由紀に主題歌の歌唱を依頼するつもりだったが、「夜明けのスキャット」での再デビューの時期と重なり、断念したという[5]。
翌1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後も「生きがい」「故郷」「ルーム・ライト (室内灯)」「挽歌」「ふらりふられて」「う・ふ・ふ」「トーキョー・バビロン」などの歌謡曲を世に送り出し、その確かな歌声は「酔い覚ましの清涼剤」との評価を受ける。1973年には「恋文」で第15回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。
コメディエンヌ(喜劇)・女優・司会など[編集]
実力派歌手として人気を集める一方、タレント性を見込まれ、バラエティー番組にも数多く出演。『8時だョ!全員集合』で共演したいかりや長介からの薫陶を受けコメディエンヌとしての才能も開花し、『全員集合』や『ドリフ大爆笑』においては最多ゲスト(『大爆笑』は一時レギュラー出演)となり、コントの「オチ」を任せられる程になった。また1995年から2006年にかけてNHK『コメディーお江戸でござる』(のち『道中でござる』)でも準レギュラーで出演し、プロの喜劇人・伊東四朗と息の合った掛け合いを見せるなど実力の健在ぶりをアピールした。現在も以前より出演頻度は減ったものの『ライオンのごきげんよう』や『ダウンタウンDX』などの番組等にゲスト出演している。
1980年代にはテレビ司会者・タレント・女優としての活躍も目立ち、彼女のマルチな才能がさらに発揮されていく。1982年には『おもしろサンデー』へ桂文珍と共に司会として出演。1983年には松田優作主演の『家族ゲーム』でお惚けな母親役を演じ、日本アカデミー賞助演女優賞を受賞、1987年には朝の連続テレビ小説『チョッちゃん』で主人公の母親役を演じ、流暢な方言を披露した。
姉との歌手活動など[編集]
1985年より姉・安田祥子と共に童謡コンサートをスタートさせ、徐々に歌手活動に再び重点を置くようになる。1986年には童謡アルバム『あの時、この歌』を発表し、同年の暮れには第28回日本レコード大賞企画賞を受賞、童謡ブームの火つけ役となる。1987年には童謡歌手として「第38回NHK紅白歌合戦」に出場。NHK紅白歌合戦に9年ぶりに復帰し、以降2001年の「第52回NHK紅白歌合戦」まで紅白の常連として出演した。なお、1992年・第43回では自身唯一の紅組トリを務めている。また2000年には、映画『ドラえもん のび太の太陽王伝説』の主題歌「この星のどこかで」を、安田と共に歌っている。
実姉の安田とのレパートリーは童謡・唱歌に留まらず、オリジナル楽曲、歌謡曲、クラシック、アニメ主題歌など多ジャンルに渡っており、特にスキャットで唄った「トルコ行進曲」は1997年の「第48回NHK紅白歌合戦」において披露されたことで一躍全国に認知。X JAPANのTOSHIも「由紀と言ったら、トルコ行進曲」と歌番組共演時にリクエストするなど姉妹の代表曲として知られている。
現在でも各地で精力的にコンサートを行う一方、女優・タレントとしての活動も盛んに行っている。
2009年には由紀さおりに改名してから40周年にあたると、ソロ名義では約四半世紀ぶりのオリジナルアルバム『いきる』を発売。またソロコンサートも行い盛況を収めた。「今後は姉妹名義の活動と並行しながら、(歌手としての)ソロ活動にも力を入れていく。21世紀の歌謡曲を歌っていきたい」と発言している。2012年、紫綬褒章[6]受章。また同年の「第63回NHK紅白歌合戦」にも久々に返り咲き(ソロ歌手としては20年ぶり13回目、紅白出場は11年ぶり)を果たした。
各国での評価[編集]
- ピンク・マルティーニとのコラボレーション『1969』が各国で高く評価された。ロンドンとアメリカのステージに、プロモーションも兼ねて立った。2011年に世界20ヵ国以上でCD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付のiTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位獲得という快挙を達成。さらにギリシャのIFPI総合アルバム・チャートで最高6位、シンガポールのHMVインターナショナル・チャートでは最高18位となった[7][8]。この報道の影響もあって、特に2011年暮れから2012年に掛けて、由紀さおりのテレビ番組への出演が増加していた。
- 同作は2011年末の第53回日本レコード大賞企画部門、芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門を受賞した。なお2012年末の第63回紅白歌合戦では、米国・オレゴン州ポートランドから生中継で登場し、ピンク・マルティーニとの共演で由紀自身紅白では43年ぶりに「夜明けのスキャット」を披露した[9]。
プライベート[編集]
1969年、20歳で10歳年上の音楽ディレクター大森昭男と結婚。結婚生活7年目に別居、14年目に離婚成立となった。37歳で子宮筋腫を患い、子宮内膜症も併発。悩んだ末、4年後の41歳の時に子宮を全摘した。ホルモン治療という選択肢もあったが、そのことにより声が変わってしまう事や「自分の声を愛してくれた母を悲しませたくない」との思いから手術を決断した。この手術後にアメリカ在住の柴冨哲也と知り合い、交際。再婚・渡米や歌手引退も考えたが、デビュー直後から個人事務所を起こすなど芸能活動をサポートしてきた母の猛反対を受け、結局母の意見に従った。1999年にその母を癌で失い、一周忌を終えた2000年、8年間の交際を経て事実婚の関係となる。しかし、由紀は仕事を辞める事ができず、日米の遠距離婚の溝は埋められないまま、2006年12月、離別している[10]。
エピソード[編集]
- シンガーソングライター松山千春を発掘したことで知られる元STVラジオディレクター竹田健二が、リリース後もあまり話題とならなかった『夜明けのスキャット』を気に入り、竹田によって札幌のラジオ局で頻繁に流されたことから、東京のラジオ局でも流れるようになり少しずつ認知され始め、大ヒットに繋がったと由紀が証言している。そのため、その意味で由紀は、「竹田さんを通して松山さんとは“兄弟弟子”です」とも述べている[11]。
- 「由紀さおり」の芸名は着物が大好きだった母親が考えたもので、当初は結城紬の「結城」と夏の着物である「紗」から「結城紗織」という表記だったが、漢字表記だと硬い印象になるので、「由紀さおり」という表記になった[12]。
NHK紅白歌合戦出場歴[編集]
- 紅白歌合戦には由紀さおりソロとして13回、姉の安田祥子とのユニットで10回出場しており、合計23回出場している。
- 実現に至ったことはないものの、1970年代から幾度となく紅組司会の候補にも挙がった。
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