3/15(日) | 3/21(土) | 「道後温泉を支えた男~無私のこころで生きる人」 講演:山本 一力(作家) 人は、どうすれば自分が成し遂げたいことをやり遂げることができるか?明治時代に老朽化していた道後温泉を現在の観光地にまで発展させた、かつての道後湯之町・初代町長の伊佐庭如矢(いさにわ・ゆきや)に着目し、現代の私たちが忘れていること、今できることを見直し、また百年先を見通す眼力や周りを巻き込む力、最良のものを選んで実行する力など、これらの力の源にある無私の心について考える 伊佐庭如矢出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや、1828年9月12日(文政11年8月4日) - 1907年(明治40年)9月4日)は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校(明治19年に廃校)校長、金刀比羅宮禰宜、初代道後湯之町長を務めた人物である。本名:成川 斧右衛門(なりかわ おのえもん)。号:震庵。 道後温泉本館を改築し、道後温泉を松山市の有名な観光地にした人物として知られる。
概要[編集]伊予国(現・愛媛県松山市)に町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩に出仕し医療に携わり、和歌に造詣が深く弟子を多く持っていた家だった。如矢は家庭環境に恵まれ、勉学に勤め塾に行くこともなく育った。松山藩士・菅良弼に仕え、阿部家に養子として入った。1856年(安政3年)には私塾「老楳下塾」を開き、1895年(明治28年)まで門弟1,000人を数えるまでになった。鳥羽伏見の戦いで、松山藩の武士が京都に出兵した際には、居留守を任された。 1868年(慶応3年/明治元年)、明治維新終了と共に長男・柯(おのえ)が20歳になったのを機に、家督を長男に譲り、別家して、伊佐庭姓を名乗った。維新後に、まず愛媛県吏員になり、廃城危機にあった[1]松山城を、県参事・江木康直に嘆願して廃城から守った。その後、内務省を経て役人生活を辞した後は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校初代[要検証 – ノート]校長、金刀比羅宮禰宜を歴任した。 1890年(明治23年)2月、前年に町制を敷いたばかりの道後湯之町の初代町長に就任。道後湯之町町長としての最大の功績は、老朽化していた道後温泉の改築・観光地としての発展である。道後温泉本館を初めとして、道後温泉の建物は当時老朽化から建て替えの時期にあったにも関わらず、財政難のため手が付けられないままで荒れ果てていた。伊佐庭は、就任早々自らは無給とし、その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。総工費は13万5千円。当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾きかねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感じるほどであったが、伊佐庭は、『この道後温泉が100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる』と、誠心誠意を持って町民を説得してこの偉大な業を完成させた。棟梁に城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現した木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。また、本館内に振鷺閣(太鼓〈刻太鼓〉を鳴らす場所)を建て、そこに当時の松山では珍しかった鮮やかな赤色の『ぎやまんガラス』を取り付けた。これに関しても『あれはこの湯之町の希望の灯ぞな』と人々に歓迎されたという逸話が残っている。他には、霊の湯や日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)[2]増築、道後公園の整備にも手がけた。 伊佐庭はまた、温泉地への観光客の誘致を目的として、道後鉄道株式会社(1900年〈明治33年〉5月に伊予鉄道に吸収)を設立。一番町~道後(現・伊予鉄道道後温泉駅)、道後~三津口(現・伊予鉄道萱町六丁目停留場付近)間に軽便鉄道を走らせ、客を温泉へ運んだ。丁度関西から松山への航路が開かれた事もあり、急速に道後温泉への観光客は増えていった。1902年(明治35年)、高齢を理由に3期12年の町長生活から勇退。茶道、詩歌、謡曲など悠々自適の余生を過ごした。1907年(明治40年)9月4日に死去。80歳没。墓は道後温泉を見下ろせる鷺谷墓地(松山市)にある。また、道後公園の中央庭園に銅像・石碑「伊佐庭如矢頌徳碑」が建っている。 2013年(平成25年)9月4日、伊佐庭の命日に道後温泉本館改築120周年イベントに先立ち、野志克仁市長と地元関係者が、道後温泉のさらなる発展を目指すことを伊佐庭の墓前に報告した[3]。 また、愛媛・四国・瀬戸内の歴史文化伝統をテーマとした演目を公演している、坊っちゃん劇場(愛媛県東温市)では、2014年(平成26年)に道後温泉本館改築120周年を記念し、伊佐庭を主人公にしたミュージカル『道後湯の町』(仮題)を2014年4月11日~9月下旬に上演予定している[4]。尚、このミュージカルの脚本にジェームス三木が担当する事が決定した。 経歴[編集]
出典[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]外部リンク[編集]
山本 一力(やまもと いちりき、1948年2月18日 - )は、日本の小説家。高知県高知市生まれ [1]。東京都立世田谷工業高等学校電子科卒業。
§人物[編集]生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、大手旅行会社(近畿日本ツーリスト)、コピーライターなど十数回の転職を経て、1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー[2]。2002年には『あかね空』で直木賞を受賞。他に『大川わたり』など、多くの時代小説がある[1]。 バブル時代、借金を億単位で抱え込み、その返済のために小説を発表したら、それが世に認められた。自転車愛好家として知られ、外出時は一家で自転車を用いる。テレビのコメンテーターとしても活動している[1]。 §受賞歴[編集]§著書[編集]
§主なテレビ出演[編集]§脚注[編集]
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