集合 10時 阪急西宮北口南改札口
明日-10/31金-
午前中は西宮北口から甲子園口のまちなみ見学・・・
リーダー 長岡弘隆(長岡建築研究所) さん
11名 参加予定
(午前)
10:00阪急西宮北口南改札口集合
| 西宮北口周辺の建物を見ながら移動
| 兵庫県立芸術文化センター、西宮ガーデンズ等
| 途中、適当な所で昼食
(午後)
13:20武庫川女子大学甲子園会館正門前集合
| 甲子園会館見学(大学側の案内あり)
15:00甲子園会館見学終了
| 移動
15:10松山大学西宮温山記念会館見学
|
16:00見学終了
| 移動
16:30 JR甲子園口駅前にて解散
庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)】
昭和5年甲子園ホテルとして竣工。
設計は、フランク・ロイド・ライトの弟子で、帝国ホテル建設にも携わった遠
藤新。
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/index.html
【松山大学西宮温山記念会館】
松山大学創立者で新田帯革製造所創業者の新田長次郎が建設したスペイン風洋
館。
昭和3年築。
http://www.matsuyama-u.ac.jp/gaiyou/sisetu/kinen/kinen.htm
楽しみにしています。
・12分(梅田⇔西宮北口) 阪急特急 縮まっているか/ 47年前と
・西宮球場のあたり
概要[編集]
神戸本線と今津(北)線の間を直通運転する準急・直通特急・臨時急行を除く(後記「のりば」参照)全営業列車が停車する。また、神戸本線の急行・通勤急行は当駅以西で各駅に停車する。
高級志向の商業施設や、文化施設が駅周辺に集中している。また大阪(梅田駅)と神戸(三宮駅)のほぼ中間に位置しており、乗客数は西宮市内の駅で最も多い。このため、2000年代以降は住宅地としての人気が急上昇しており、2011年度の「関西住みたい街(駅)ランキング」(調査:長谷工アーベスト関西支社)では、2010年度に続いて第1位となった[2]。
歴史[編集]
阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が、灘循環電気軌道を買収して十三線の名称で阪神間の新線を計画した際は、この地域は今より北の門戸厄神東光寺付近を経由する、現在の山陽新幹線および国道171号のルートに相当するルートで申請されていた。これは十三線の敷設が主に伊丹一帯の開発を名目としていたためであり、また十三線の申請以前に宝塚 - 西宮香櫨園(現在の阪神本線香櫨園駅付近)間の免許を箕面有馬電気軌道が所有していたため、それと接続する形を取ったからでもあった。
しかし阪神間を高速で結ぶ目的を達するため、同社は伊丹へは支線の伊丹線を開業させることで代替とし、南の塚口を経由する短絡ルートへ変更した。それに伴い宝塚から南下する計画線との接続点も変更され、結果両線の接続および車庫の設置を目的とし、当地に駅が開設されることになった。以上の経緯は阪神急行電鉄の項目も参照のこと。
開業時、駅は西宮町(1925年に市制施行で西宮市となる)の市街地から大きく離れ、武庫郡瓦木村(1942年に同市へ編入)に属する農村地帯に存在したが、当初より「瓦木」ではなく「西宮北口」を名乗った[3]。これは、宝塚からの支線(西宝線として1922年に開業)をさらに南下させ、西宮の市街地まで延伸させる計画があり、それとの接続点ともなる予定であったからだと言われている(阪急今津線も参照)。しかし、この西宮市街地への延伸計画は実現せず未成線となり、代わりに阪神本線への接続を図る計画が立てられ、それを1926年に実施して現在の今津線となった。後述するダイヤモンドクロスはこのとき生じている。
1946年(昭和21年)10月14日には、当駅のホームにおいて漫才師・ミスワカナ(初代)が心臓発作のため急逝(享年36)するという出来事もあった。
年表[編集]
概要[編集]
日本初の二階建スタンドと全面天然芝のグラウンドを持つ野球場として、シカゴのリグレー・フィールドなど当時のMLBの諸球場を参考に設計された。当初の計画では西宮北口駅と球場入口を直結する計画であったが用地買収が果たせず、一面水田であった現在地に1936年に起工、わずか5ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年に開場した。
すぐ南の阪神甲子園球場に対抗して造られた阪急西宮球場は、日本初の鉄傘付き二階席の他、当時としては異例の背付き椅子を備えた内野席、5万7千人収容の観覧席の傾斜角度をどこから見ても本塁に合わせるなど工夫され、その後長く「行きよい、見やすい」というキャッチフレーズが使われた。また、浴場など選手用施設、記者室、郵便局、当時では珍しかった男女別トイレなど内部施設も充実しており、広い敷地と併せて最新・最高の設備を備えた球場であった[2]。
阪急電鉄が所有していたプロ野球チーム『阪急ブレーブス』の本拠地(フランチャイズ)として阪急の主催試合が開催された。それ以外に、競輪場として競輪開催(「西宮競輪場」で詳述)、アメフトの試合、コンサートなど様々なイベントで使用されており、まさに“多角経営”の先駆けとなった野球場である。
阪急電鉄が球団を譲渡したオリックスがフランチャイズを移転した後の1991年に「多目的スタジアム」であることを標榜し、「阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム)」へ改称。
1949年までの1リーグ時代は同じ西宮市内にある阪神甲子園球場と共に関西のプロ野球興行の中心だったが、セ・パの2リーグに分裂した1950年以後は阪急がパ・リーグ、甲子園を本拠地とする阪神タイガースがセ・リーグとそれぞれ別のリーグに所属したことに加え、フランチャイズの影響もあって、当球場での公式戦は阪急主催のパ・リーグの試合のみが行われる状態が続いた。前述のオリックスのフランチャイズ移転があった1991年に甲子園を夏の高校野球に明け渡した阪神が2リーグ分裂から42年目にして初めてセ・リーグの公式戦を行った。なお、1996年にプロ野球の公式戦を最後に行ったのも阪神である(後述)。
その後はアメフトと競輪開催が主となったが、人工芝の劣化によりアメフト開催も減少し、西宮競輪廃止が追い討ちとなり、球場自体の老朽化と経営難から2002年末を以て閉鎖。2004年9月1日から2005年にかけて取り壊された(「歴史」で詳述)。
跡地には、スタジアム敷地を含めた周辺再開発により、2008年11月に大型複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」が開業した。「ガーデンズ」内の「阪急西宮ギャラリー」には、1983年当時の本球場のジオラマ模型が展示されている。
スコアボード[編集]
- 初期の頃は手書きパネル式。当初はボールカウントもボードで表示するタイプだった。18回まで記載することが出来た。1965年に改修を受け外周がオレンジ色となり、ボールカウントもランプ式に改められた。またこの時には中央部分に大型スクリーンが設けられ、プロジェクター形式で写真を表示していたこともあった。
- 1982年に関西の球場としては初となる電光掲示方式(松下電器産業製)を採用。初期のパネル式のスタイルを踏襲し、イニング表示は10回まで、その他に合計得点、ヒット、エラー表示も可能に。打順部分はメッセージ表示も可能。中央部分には大型映像装置(アストロビジョン)が設けられた。
- その後1998年に競輪機能を強化する名目でバックスクリーン付近に競輪用特別観覧席(ガラス張りの屋内施設)が設置されたため、スコアボードを撤去し、競輪の本部棟屋(左中間付近)に映像装置を移設し、それをスコアボードに代えて利用した。
コメント
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