ほしかったのです。
醍醐の桜
醍醐の花見
醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶会と双璧を成す秀吉一世一代の大イベントとして知られる。
記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではないが長いつき合いのある前田利家正室・まつが続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、まつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て(芳春院は家臣筋といえど、この席では客人。客人をほうって於いて身内で順争いをするものではない為)その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八つ[注 1]の路地茶屋[1](パビリオン)の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。
この花見で詠まれた和歌の短冊は今も三宝院に保管されている。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演 准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を実現させたともいう。秀吉はこの約5か月後に没した。
古今東西の多彩な献上品やアトラクションが供せられる一方で、諸大名のあいだではすでに秀吉亡き後の政権のあり方について、陰に陽にさまざまな駆け引きや腹の探りあいがあったという。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。
目次
[非表示]参考文献・外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ^ 山田孝雄 山田忠雄 校訳 『櫻史』 講談社学術文庫 ISBN 4061589164、221p。 和歌の会で詠まれた短冊が国宝となった、という記述があるがこれは誤りで、国指定の重要文化財である。醍醐寺 文化財アーカイブス
注釈[編集]
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