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シベリア鉄道(シベリアてつどう、露:Транссибирская магистраль )は、ロシア国内を東西に横断する鉄道。全長は9,297kmで、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。
概要[編集]
正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ - ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。モスクワからシベリアまでは、従来はモスクワから北東へ向かうモスクワ - ヤロスラヴリ - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルク経由の路線を使っていたが、2000年代以降はこれより南寄りのモスクワ - ウラジーミル - ニジニ・ノヴゴロド - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルクの路線が使われる。さらに南寄りのモスクワ - ムーロム - カナシ - カザン - エカテリンブルクの路線、モスクワ - リャザン - サマーラ - ウファ - チェリャビンスクを経由する路線もありうる。「ロシア号」はモスクワのヤロスラフスキー駅を出発し、ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する。
ロシア語では、モスクワ - ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を "Транссибирская магистраль"「シベリア鉄道」 と呼ぶほか、モンゴル国のウランバートル経由で北京まで結ぶ路線を "Трансмонгольская железная дорога"「モンゴル鉄道」 、中国東北部経由で北京まで結ぶ路線を "Китайско-Восточная железная дорога" 「東清鉄道」と呼ぶのが通例である。以上3つが更に広義のシベリア鉄道である。
航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜連絡運輸において最速の交通路でもあった。その後、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)も建設された。
東洋と西洋をまたぐ路線であるために中国、北朝鮮、モンゴルとの直通運転がある。国境を越えると人種や文化、景色も大幅に変わる事を魅力と感じている人も多い。
歴史[編集]
計画まで[編集]
シベリアに鉄道を建設する案はモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成した後の1850年代に既に生まれている。
1850年代[編集]
シベリア鉄道の計画は、1850年から始まり、その初期段階は60年代まで続く。
ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江口を占拠、その後遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾とアムール江岬のソフィウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終わった。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルムを経て、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。同年、アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク・チタ間に鉄道を敷設する請願を出したが、精密な調査の後廃棄された。
その他計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移される事なかった。しかし、その中で優れたものとしては、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路――ペルムよりニジニ・タギルを経てチュメニに達するものがあった。
1860 - 1870年代[編集]
かくたる頓挫にもかかわらず、60年 - 70年代は重要な進展を見せた。
1864年のヴャトカ飢饉の救済法を視察する為、1866年同地方に派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を大体終えた3月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を防御する唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへ鉄道を敷設する事にあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達するに及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう」と述べた。この報告はいくらかの注意を引くことになった。
貿易家リウビモフは、1869年にペルムよりクングル、エカテリンブルグ及びシャドリンスクを経て、ウルガンの北49ベルスタのビエルーゼンスク村までを実測し、報告した。また、西シベリア総督クルシヨフは同年ツァーリに意見書を提出し、シベリア連結鉄道速成の必要を論じ、ニジニ・ノヴゴロドよりカザンを経て、チュメニに至る線の近い事を説明した。
こうして、三つの計画案である、バグダノウィッチの北方線路、リウビモフの中央線路、クルシヨフの南方線路が生じ、政府内においてもその実現に向けての議論が始まった。
政府においては議論の末、約700ベルスタの線路によってカマ川とトボル川とを連結する事は可能とし、特別に委員を選定し、ウラル地方に派遣した。 委員はウラル鉱業の利益とシベリア貿易の利益の両立を計量の基礎とする事を当初の指針としていたが、両立の不可能な事をみてとり、後者を排し前者を優先する事となった。
やがて政府は1872年に渡る測量の後、三幹線を計画した。すなわち、
- キテシュマ - ヴャトカ - ペルム - エカテンリンブルグ 933ベルスタ
- ニジニ - カザン - クラスヌ - フィムスク - エカテリンブルグ 1172ベルスタ
- アラチル - ウファ - チェリャビンスク 1173ベルスタ
また、審査委員会は1875年において、ニジニ・ノヴゴロドよりボルガの岸に沿い、カザン、エカテリンブルグ及びチュメニに達する線路を採択した。かくシベリア鉄道の計画は着々と推移していたが、チュメニを過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し、1875年、ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設の請願が出、政府もその必要性は認めたものの、財政の考慮から実行には至らなかった。
その間にも、本土の鉄道は随時拡張され、1877年にはオレンブルグ鉄道、1878年にウラル鉄道が完成した。
1880年代[編集]
1880年、ロシア帝国のアレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルグ・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達する事になる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。
まず、第一に挙げねばならないのは、1980年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム - トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク - バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク - クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。
次いで、オビ・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべき事を述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカルまでの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガの川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ及びシルガの両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。
これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出、次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設する事は決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクである事も決定された。
問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルグであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。
1890 - 1891年[編集]
当時、隆盛の水路併設鉄道案はチュメニを起点とするものだった。それは大体次のようなものである。
- (水)カザン - ペルム2344km、(ウラル鉄)ペルム - チュメニ2010km、(水)チュメニ - トムスク7289km、(新鉄)トムスク - イルクーツク4060km、(水)イルクーツク - ムイソフスキー埠頭392km、(新鉄)ムイソフスキー埠頭 - ストレンスク2627km、(水)ストレンスク - グラフスキー5989km、(新鉄)グラフスキー - ウラジオストク1001km
全長は約25715km、内、水路は16015km、鉄道は9700程度となる。ウラル鉄道は既に開発されているから、7690km程の新設で済み、費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算されていた。欠点は運送時間の問題で、モスクワよりウラジオストクまで荷物を運ぶのに75日、旅客を運送するのには35日、これはともかく貫通鉄道までの輸送路確保であるにせよ、水路の氷結のため1年の内わずか4か月しか充分に使用できない事はこの鉄道の見通しを明るいものにはしていなかった。
委員会はチュメニ線は中央との連絡が不便であるとして否定した。またオレンブルク線は西半分は土地が荒れており、東半分は工事が困難であるとして否定した。1890年末、委員会は「サマラ - ウファ - ズラトウスト - オムスク - トムスク - クラスノヤルスク - ニジニ・チウジンスク - イルクーツク」の中央路線案を採用した。
シベリア交通幹線はこれによって大体の方針を決定した。ロシア政府は、チュメニを西方の起点とする事を否定し、この間の線はボルガの水路のみによらないことを示した後、速やかに上述の水陸併用線の欠点を踏まえてこれを否定し、シベリア貫通大鉄道の敷設を決定した。
1891年3月29日、ツァーリーのアレクサンドル3世は次の勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコライに与えた。
「私は今日シベリア全土を貫通する鉄道布設の詔勅を発し、天産富饒のこの地をロシアの線路に連絡させる。よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベリアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオストクに布設するところに臨行せよ。この線路は国庫の財をもって布設し、その監督もまた官の任じるものであり、まさに国家事業である。汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望切なるを世に知らしめるためである」
以上の勅諭を皇太子は5月12日、ウラジオストクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行った[1]。
決定に伴い、工事は直ちに着手すべきこととなり、七区に分かれた予算の概算書が決定された。その総計は3億5021万482ルーブルであった。なお、この七区とは、ミアスから繋がるチェリャビンスクに始まる、(1) チェリャビンスクーオビ、(2) オビ - イルクーツク、(3) イルクーツク - ミソウスク、(4) ミソウスク - スレテンスク、(5) スレテンスク - ハバロフスク、(6) ハバロフスク - グラススク、(7) グラススク - ウラジオストク、である。
シベリア最大の町だったトムスクはシベリア鉄道建設では不運なことにルートから外された。トムスク付近のオビ川沿岸地帯は湿地帯であり橋を架けるには不向きで、ルートはトムスクの南70kmにずらされ、オビ川渡河地点にはノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の街が作られた。トムスクには盲腸線となる支線が本線上のタイガから繋がったに過ぎず(トムスク支線)、シベリア鉄道による交通や交易の中心となる機会は奪われてしまった。
横断鉄道は、少ない乗客や麦の輸送など、当面の地方交通を満たす程度の能力で建設された。これは後に日露戦争の際、軍関係の輸送のために地方の物流が犠牲になる結果を招いている。
建設[編集]
1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。軌間は1524mm(後に1520mmに改める)の広軌を採用した。これには、「1435mmの標準軌を採用した欧州と同じにするとナポレオンのような侵略者に使われれば脅威になると考えた」「皇帝の招いたアメリカの技術者が広軌論者だった」など、さまざまな説がある。
建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始された。東の終点のウラジオストクからはウスリー川に沿ってハバロフスクまでの鉄道、ウスリー鉄道がまず建設された。西では1890年、ウラル川を超える橋が完成し、鉄道がヨーロッパ・ロシアを過ぎてアジアに到達した。オビ川を渡るオビ川鉄橋は1898年に完成し、1883年に鉄道建設に先立ってオビ川沿いに建てられたノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の小さな町はシベリアの中心として巨大化してゆく。1898年、最初の鉄道がイルクーツクおよびバイカル湖畔に達した。ウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。
サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士が鉄道建設に従事した。イルクーツクから60km東にある長さ640km、深さ1600mのバイカル湖が、沿線最大の障害物となった。バイカル湖の南端を迂回する支線が完成するまでの間、夏はイギリスから購入した砕氷船を使ったフェリーによる連絡、冬は湖上に線路を敷いて列車を走らせた。1901年、バイカル湖の区間を除いてシベリア鉄道は一応完成、日露戦争の最中1904年9月にようやく全線開通した。
なお、1896年にロシア政府は清国政府から、シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た(露清密約)。当初は1903年に完成した東清鉄道がシベリア鉄道のルートだったが、その後アムール川北岸(左岸)を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内線を1916年に完成させ、現在のルートが完成した。
ソビエト時代[編集]
シベリア鉄道は政治的・経済的・軍事的に重要な路線であり続けた。1918年にはロシア革命後に本国移送中のチェコ軍団が沿線を占領し、その救出を理由にして日本などのシベリア出兵が起こった。実際の所、日本のシベリア出兵は東清鉄道の利権を認めさせる事が目的であったが、これは同時に、シベリア鉄道の管理権の帰属にも絡んでいた。結局、日米間で一通りの衝突を済ませた後、日米仏伊英中の6か国管理で一応ロシア人がその委員会をとりまとめる事、ただし米国のスティーブン技師らの技術部がこれを実質上管理する事、東清鉄道に関しては日本の利権をある程度認める事を、出兵期限内の間継続すると取り決めた。この結果、日本は現地の反革命軍(白軍)などと協力して1922年までイルクーツク以東の沿線を占領し、極東共和国成立などの事態が起こった。
第二次世界大戦が開始されるまでは、アジア - ヨーロッパの連絡輸送の一環としての役割を担った。例えば1935年当時だと、東京 - パリ間は航路で約40日を要していたが、この鉄道と朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道を使う(下関・釜山・哈爾浜・満州里・チタ経由)と15日で到達する事ができ、当時の最速ルートとなった。ただし、通過ビザの取得が難しかったことからシベリア鉄道の利用はやや難しく、太平洋航路でシアトルに出て、アメリカ大陸を横断後、ニューヨークから大西洋航路で欧州に向かうのがメインルートだった。この場合、ロンドンやパリまで約20 - 25日程度の行程となる。
一方、ソビエト連邦にとってもこの鉄道は重要で、特に1930年代以降はスターリンの独裁により追放された多くの国民がこの沿線で強制労働に従事し、シベリア開発のために酷使されて、ハバロフスク橋付近のアムール川トンネルを1941年に完成し、これはいまもモスクワ方面行きに利用されている。また、第二次世界大戦末期の1945年には、5月の独ソ戦勝利から8月の対日宣戦布告までの短期間に大量のソ連軍(赤軍)を輸送する事に成功し、ここで得られた日本軍の捕虜も強制労働に投入された(シベリア抑留)。
第二次世界大戦後も路線の重要性は変わらなかったが、ソ連は太平洋艦隊の軍港であるウラジオストクへの外国人立ち入りを禁止したため、1956年に国交が回復した日本との貿易や、シベリアを横断する外国人の往来には、ウラジオストクの東側にある商港ナホトカが利用され、シベリア鉄道からは支線を利用する事になった。外国人乗客はロシア号の乗車がモスクワ-ハバロフスク間に限定され、ハバロフスク-ナホトカ間は連絡列車を利用した。
航空路の発達により旅客ルートとしてのシベリア鉄道の重要性は低下したが、貨物取扱量は冷戦時代でも年々増加した。また、1984年にはシベリア鉄道の北側にバム鉄道が全通し、シベリア開発の両輪となった。
ペレストロイカ後[編集]
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高指導者となり、ペレストロイカを断行したが、経済的な混乱は拡大した。また、設備更新の停滞などもあり、シベリア鉄道の輸送力は低下した。1991年の連邦崩壊後はロシア号の運行が毎日から隔日に削減されるなどの影響を受けている。
1992年1月にウラジオストクが対外開放されたため、外国人旅客も全線の乗車が可能となった。1998年には新しいハバロフスク橋が完成して、上面はシベリア横断道路で利用されている。2000年にNHKで放送された『五大陸横断 列車の旅』によるとモスクワ - ウラジオストクまでが1等約15000円、2等約7500円であり[2]、当時のロシアの物価が極めて安かった事が捉えられる(2001年のロシアの月収は6000円前後)。
1929年に始まった電化工事は2002年に全線で完成し、列車の積載量は6,000tにまで大きく増加した。また複線化工事なども継続している。
今後の展望[編集]
シベリア鉄道はアジアとヨーロッパを結ぶ重要な交通路の一つである「シベリア・ランドブリッジ」の中核であり、空路を除くと最短・最速の北東アジア-欧州連絡ルートである。実際シベリア鉄道を利用して貨物輸送を行うと、海路と比較するとかなりの時間短縮を図れる。
例えば北京からハンブルクまでは、輸送が順調な場合は海路の半分の日数である15日で到着する[3]。東京からサンクトペテルブルク間を海路の場合約40日程度かかるが、ウラジオストクからシベリア鉄道を利用した場合、同区間を約25日程度で輸送できる[4]。そのため、日本の商社や製造業、ドイツ鉄道をはじめとするヨーロッパの鉄道会社が興味を示しており、シベリア鉄道を管轄する国営ロシア鉄道やその関連企業との業務提携を積極的に進めている[5]。2008年1月には、中国・モンゴル・ロシア・ポーランド・ドイツの各鉄道会社が中国=ドイツ間のコンテナ貨物輸送で協力することが発表された[6]。
しかし余りにも長大な路線であるため、その近代化は未だ途上段階にあり、車両や機関車、設備の老朽化が進み、貨物輸送の定時性や安定性が保てるかどうか、さらに海路と比べて割高である点をどう解決するかが、今後の課題である。またロシアの政治・経済的安定性にも不安が残っている。
ソ連崩壊後は全区間乗車可能となり世界中から観光客が急増し内装もいっそう豪華になり客車はさまざまな塗装に塗り替えられている。詳細は後述。
建設の影響[編集]
シベリア鉄道の建設の結果、シベリアからロシア中央部やヨーロッパ諸国へ農産物を輸送できるようになり、シベリアの農業は一大発展の機会を得た。その効果は鉄道沿線のみならず、河川交通を通じて鉄道につながる地域にも及んだ。たとえばアルタイ地方はオビ川の舟運とシベリア鉄道を経由して小麦を輸出できるようになった。
シベリアの農家が安い穀物をヨーロッパに輸出するようになった頃、ロシア中央部の農業は、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令後の経済的な圧力でいまだに混乱していた。このため、ロシア中央部を守り社会的な不安定が起こるのを防ぐため、1896年に政府はチェリャビンスクを通過する穀物に関税障壁をつくるためのチェリャビンスク関税区間 (Челябинский тарифный перелом) を設置し、同様の障壁を満州側にも設置した。この措置はシベリアの輸出産品を大きく変えた。アルタイ、ノヴォシビルスク、トムスクには穀物を加工する製粉所が多く設立され、農場はバター生産に路線を変更した。1896年から1913年まで、シベリアは毎年平均で501,932tの小麦粉などを輸出した。
シベリア鉄道は21世紀の現在もロシア国内の最も重要な輸出路であり続けている。ロシアの輸出に関わる輸送の30%はこの鉄道が担っている。多くの外国からの旅行者を惹きつける一方、国内の旅客輸送の重要な一部でもある。
シベリア鉄道は毎年2万個のコンテナを経済成長が著しい東アジアからヨーロッパに輸送し、そのうち8,300個は日本からの輸出品を運んでいる。これは日本からヨーロッパに船などで運ばれる一年当たり36万個のコンテナに比べれば非常に少ない数であり、コンテナ船の大型化やスピードアップ、ソ連崩壊後の鉄道の混乱などの結果シベリア鉄道を経由する比率は落ちている。しかしかつては船より速い輸送路として、ロシア経済の伸長に伴い、今後の日本や中国との間の輸出入の経路として再び注目されている。経済成長が著しい『BRICs』のロシアでは日本車の需要が高まっており、日本の自動車会社の現地生産が始まったため、自動車部品輸送の手段にシベリア鉄道が検討されている。2008年からマツダが国産自動車を鉄道で輸送を始め、トヨタ自動車も部品輸送を2009年から始める予定である。鉄道輸送の需要や成長の可能性はあることから、ロシア運輸省は鉄道を通じたコンテナ輸送を年10万個にまで増やす計画を進めている。そのためにも、ボトルネックとなっている単線地区を複線化することが必要とされている。
沿線の主要都市・主要駅[編集]
- シベリア鉄道の主要駅一覧
- 本線上 モスクワ - ニジニ・ノヴゴロド - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルク - チュメニ - オムスク - ノヴォシビルスク - クラスノヤルスク - タイシェト - アンガルスク - イルクーツク - ウラン・ウデ - チタ - ビロビジャン - ハバロフスク - ウスリースク - ウラジオストク
- ※太字は100万都市(2002年国勢調査)。ロシア国内に13ある100万都市のうち6都市を結んでいる。
- 近隣都市 ヤロスラブリ(2001年まではロシア号が停車)、チェリャビンスク、トムスク、アバカン、ブラゴヴェシチェンスク、ナホトカ
- ※太字は100万都市(2002年国勢調査)。
- 関連 - 満州里、ハルビン
- ※バム鉄道の沿線都市は当該項を参照のこと。
主な列車[編集]
- 1・2列車「ロシア号」 ウラジオストク駅 - モスクワ間を走る、シベリア鉄道の代表列車。
- 3・4列車 北京 - ウランバートル(モンゴル) - ウラン・ウデ駅 - モスクワ モンゴル経由の国際列車。ロシア鉄道のウェブサイトにおける時刻表では33・43列車として案内されているが沿線の駅における発車案内では3・4列車として案内されている(Wikipediaロシア語版では3・4列車)。なお中国国内ではK3次・K4次(Kは日本の急行にほぼ相当する「快速」の略)、モンゴル国内では3・4列車と案内される。中国客車。ナウシキから(つまりロシア国内は)ロシア客車が増結。中国・モンゴル・ロシアと異なる文化をもった3か国を通過するエキゾチシズムに富んだ路線を走行し、食堂車も国により付け替えられるなど変化に富んだ旅を楽しめるため、欧米の観光客に大変人気がある。欧米の「シベリア鉄道」ガイドブックはこの路線を中心に記述している場合が多い。
- 所要 : モスクワ行き5泊6日、北京行き6泊7日 週1本運行
- 5・6列車「オケアン(大洋)号」 ウラジオストク駅 - ハバロフスクI駅間。
- 所要 : 1泊2日(夕刻発 - 翌朝到着) 毎日運行
- 5・6列車 ウランバートル - モスクワ間 モンゴル客車。
- 所要 : モスクワ行き4泊5日、ウランバートル行き5泊6日。 週1本運行。上記33・43列車と同一ダイヤで曜日を違えて運行されるが、中国発着と比べ利用客は少なく、編成は非常に短い。なお上の「オケアン号」と列車番号が重なっているように見えるが、走行区間が重なっていないため区別される。
- 停車駅 : シベリア鉄道本線内の全停車駅はシベリア鉄道の主要駅一覧#本線を参照。
- 7・8列車 ウラジオストク - ノヴォシビルスク間 「ロシア号」との交互運行列車。
- 所要 : ノボシビルスク行き4泊5日、ウラジオストク行き5泊6日 隔日運行
- 停車駅 : シベリア鉄道の主要駅一覧#本線を参照(全停車駅を掲載)。
- 9・10列車「バイカル号」 イルクーツク - コテリニチ - サンクトペテルブルク間。
- 19・20列車「ヴォストーク(東方)号」 北京(中国)・平壌 - 瀋陽 - 満洲里 - チタ - モスクワ間 かつての日本からの欧亜連絡ルートをたどる国際列車。ロシア客車。
- 所要 : モスクワ行き6泊7日、北京・平壌行き7泊8日 週1本運行
- 25・26列車「シビリャク(シベリア人)号」 ノヴォシビルスク駅 - モスクワ間(ヤロスラヴリ経由)。
- 所要 : 2泊3日 毎日運行
- 37・38列車「タミチ号」 トムスク - タイガ駅 - モスクワ間。
- 停車駅 : ru:Томич (поезд)#Расписаниеを参照(全停車駅を掲載)。
- 53・530列車 ウラジオストク - オムスク - キエフ・ドネツク(ウクライナ)間 世界最長距離列車に昇進。ウクライナ客車。
- 所要 : 所要8泊9日 隔日運転
- 75・76列車 ティンダ - タイシェト駅 - モスクワ間(カザン経由)。
- 所要 : 5泊6日
- 113・114列車 ノヴォシビルスク - ベルリン(ドイツ)。ドイツ客車。
- 所要 : 4泊5日(113列車)、5泊6日(114列車) 週1本運転
- 385列車 ウラジオストク駅 - ベロゴルスク - ブラゴベシチェンスク間。
- 所要 : ウラジオストク行き1泊2日、ブラゴベシチェンスク行き1泊2日 隔日運行
- 903・904列車 ウラジオストク - モスクワ。種別はПассажирский(普通列車)。
- 所要 : 9泊10日。毎日運行。世界最長の普通列車(ただし都市部などで通過駅はある)。運行時間では文句なく最長である。
使用車両[編集]
シベリア鉄道沿線は氷点下50℃にもなる極寒であるためにロシア国内の列車だけでなく他国からの国際列車も耐寒の車両が使用され、石炭ストーブが備わっている。これは技術が遅れているわけではなく、電気によるエアコンや石油ストーブよりも信頼性が高いと考えられているからで、路線の大半を占める極寒の地において万一暖房装置が故障したら生死に関わるためである。また、僻地、過疎化が進んでいる街を通るためか列車は垂れ流し式トイレなので停車中には使用はできない。
ЭП1などが主にシベリア鉄道の長距離列車の機関車に使用される。ВЛ10は貨物列車に使用される。
普通列車はエレクトリーチカや客車を使っておりソ連崩壊後は塗装も様々である。シベリア鉄道沿線は僻地であるためか新型車両の導入が少ない。主にЭР2が使用される。
シベリア鉄道は旧ソ連の影響で地味な印象が強いものの、最近では様々な塗装の車両が導入されており、海外と直通運転している事もあり、種類は豊富である。一部の区間では中国・北朝鮮・モンゴル車両がドイツ・ポーランド・ベラルーシ・ウクライナからの車両が直通運転する区間と重なる。つまりアジアとヨーロッパの車両が同じ線路を走る事になり、広大な国ならではの楽しみでもある。
- ロシア号はロシア国旗の塗装であり、週に一度は北朝鮮の緑色車両が1両だけ連結され、金日成・金正日バッチをした北朝鮮兵士が乗っていたようである。今は北朝鮮車両は線路整備悪化でハサンまでの運用と推測される。
- バイカル号・オケアン号はロシア号よりも内装がよく、塗装も独特的である。
- 北京モスクワ間の満洲里経由の国際列車はこれまでロシア国旗の車両だったが、2008年から臙脂色の車両が登場し、新型車は従来どおり北朝鮮列車と連結運転も可能であり、シャワーやテレビもついているなど首都を結ぶだけあって内装も豪華である。また車体に中国語・ロシア語で『北京-モスクワ』などと描かれており、また平壌やイルクーツク、チタへ行く車両もそれらの行き先が描かれている。
- 北京モスクワ間のモンゴル経由の国際列車は中国の緑色車両が使用されモンゴル・ロシアの旧塗装に酷似している。中国語・ロシア語・モンゴル語の表記のサボがある。
- ウランバートルからモスクワ行きはモンゴル車両であり、北京モスクワの国際列車が走らない日に同じダイヤで運行される。
- 『Golden Eagle Trans-Siberian Express』という豪華寝台特急列車が走っており、モスクワ - ウラジオストクを15日かけて途中で降りて観光しながらウランバートルを経由する。ただし、かなり高額である[9]。
シベリア鉄道の他国との関係[編集]
シベリア鉄道はドイツ、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタン、モンゴル、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と国際列車を直通運転している。広大なロシアを走るために国際列車もヨーロッパとアジアにまたがって運行する列車が多い。
シベリア鉄道は日本の歴史上にも重要な役割を果たしており、金本位制を採用していた時期には日本の在外決済機関はすべてロンドンにあったことから、国際決済に要する手形はすべてシベリア鉄道で輸送されており国際金融の重要な生命線となっていた。日本は樺太と朝鮮が統治下だった頃はロシアとは陸で繋がっており、朝鮮からシベリア鉄道経由で欧州行国際列車が走っていた。また太平洋戦争終結までは、日本各地から朝鮮・中華民国、そして欧州のローマ・ロンドンに至るまでの国際連絡運輸が行われており、それら各地への切符を主要駅で買う事ができた。松岡洋右外相は日ソ中立条約を結びシベリア鉄道で帰朝する際には、スターリンに駅頭で見送られた。
1988年に日本へのオリエント急行の輸送でシベリア鉄道が利用された。ゴルバチョフのペレストロイカで冷戦末期だったために西ドイツ、東ドイツ経由が許された。
近年ロシアで日本車の需要や中国の経済成長でシベリア鉄道の貨物の需要が高まっており、中国とドイツを結ぶ初の貨物列車「北京 - ハンブルク コンテナ特急」が運行された。BRICsのロシア、中国とNEXT11の韓国は直通運転を試みているが、北朝鮮が直通運転の障壁であり、メドヴェージェフ大統領と李明博大統領は対北朝鮮政策やシベリア開発を会談した。
北京 - モスクワの列車は2種類存在しており、1つはウランバートル経由の中国車両で緑色の車体、もう1つは満州里経由のロシア車両であり、臙脂と白色の新型客車で内装はかなり豪華である。ロシア・モンゴルと中国・北朝鮮は線路の幅が異なるため国境付近で台車ごと交換する。また国ごとに食堂車は付け替えられる。つまり中国、モンゴル、ロシアの食事が楽しめる。
ちなみにこの北京 - モスクワは旧ソ連時代から走っており、中ソ対立で関係が悪くなっても運休することなく走っていた。中国と直通があるシベリア鉄道の駅名は、中国語では基本的にそのまま当て字が多い。例えば、符拉迪沃斯托克=ウラジオストク、赤塔II=チタII、泰謝特=タイシェトなどとなる。満洲里の隣の駅のザバイカリスク駅は「后貝加尔」と中国人に読みやすくするための短い当て字であり、ノヴォシビルスクはロシア語で「新しいシベリア」という意味であるため中国語では「新西伯利亜」という漢字に合った当て字であり、中国語の当て字の難しさを窺わせる。
世界最長距離列車は前述の「ロシア号」モスクワ - ハサン - 平壌の列車だったが、経済的に貧しい北朝鮮国内での線路整備の悪化で、北朝鮮区間の運行は打ち切られた。ただし海外サイトではつい最近でもロシア号に連結されている1両編成の北朝鮮客車がロシア語・朝鮮語の「平壌-モスクワ」というサボを掲げながらロシアのハサンまで走っており、そこから平壌行きの北朝鮮車両が接続していると推測される。北朝鮮の金正日総書記も飛行機利用を避け、シベリア鉄道を経由してモスクワまで特別列車で訪問したことがある。
53・54列車のハリコフ(ウクライナ) - ウラジオストクの列車が9657kmの現在運行中の世界最長距離列車でウクライナ車両(ウクライナ国旗色)を使用しており、極東ロシアではるか東欧のウクライナからの客車が見られる。
しかし国際列車が走っているにもかかわらずシベリア鉄道沿線の駅名板などには英語表記がないため、ロシア語の会話集とシベリア鉄道の旅行ガイドブックがなければかなり苦労する。また車掌も乗客も英語が話せない人が多い。
シベリア鉄道に関連した作品[編集]
- ドキュメンタリー
- NHK特集 名作100選 『シベリア鉄道~9,000キロ8日の旅~』(1982年) ※ 前編・後編の2巻構成。
- BSドキュメンタリー『シリーズ・シベリア鉄道2008』(2008年)
- 旅番組
- 『世界・夢列車に乗って』#45~#49(2009年)
- 映画
- アニメ
- 『OVERMANキングゲイナー』
- 『BLOOD+』
- 漫画
- 『シベリア鉄道ハネムーン―9300キロ乗りっぱの旅―』かわむらゆきか ※『BE・LOVE』連載。
- 書籍
- 歌
- ロシア語講座
脚注[編集]
- ^ ちなみに、皇太子ニコライは、この直前に日本を訪問した際、5月11日に大津事件に遭遇している
- ^ 10年後の2010年では1等約120000円、2等約70000円である。
- ^ China-to-Germany Cargo Train Completes Trial Run in 15 Days - bloomberg
- ^ Mitsui talking to Russian railway operator on trans-Siberian freight service
- ^ 『秋田魁新報』 2007年10月23日
『日本経済新聞』2007年10月18日
『西日本新聞』 2007年10月22日 - ^ Beijing to Hamburg fast cargo rail link planned - China Post
- ^ "Thomas Cook European Rail Timetable", August 2011: p.33及びTable 1990
- ^ http://vszd.rzd.ru/news/public/ru?STRUCTURE_ID=2&layer_id=4069&refererLayerId=3307&id=13256 (ロシア語)
- ^ Golden Eagle Luxury Trains Limited主催のツアーに参加する形となるが、最安のSilver Classの2名1室利用で、1名あたり約15,500ドル(USD)。
関連項目[編集]
- シベリア
- グレート・ゲーム、南下政策
- 外満州、日英同盟、日露戦争、英露協商
- バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)、アムール・ヤクーツク鉄道(アヤム鉄道)、トルキスタン・シベリア鉄道
- 大陸横断鉄道、アジア横断鉄道
- バイカル湖岸鉄道
- オームリ - バイカル湖で売られている。
- ロシアの電気機関車
- 歴史的観点
- シベリア鉄道と直通運転を行う鉄道
- 中華人民共和国の鉄道
- 京哈線・浜洲線(北京 - 満洲里)
- 朝鮮民主主義人民共和国の鉄道
- モンゴルの鉄道
- 中露国際列車
- ウクライナ鉄道
- シビリャク(Sibirjak、ドイツからの直通列車)
- 欧亜連絡運輸について
- 対抗鉄道計画
外部リンク[編集]
- 北京-モスクワ 第3/4 国際列車
- ウスリースク経由の平壌ーモスクワの列車の写真
- 車窓風景の動画(グーグルとロシア鉄道が公開)
- シベリア鉄道~広大な大地を駆け抜ける 激動のロシア~
- BRICs辞典 シベリア鉄道での旅行について
- シベリア鉄道 オケアン号
- The Trans-Siberian Railway: Web Encyclopedia
- Global Stroll's Trans-Siberian Railway.
- Guide to the Trans-Siberian Railway by [1].
- Transportation Overview in the Khabarovsk Krai Region of Russia from U.S. Department of State
- Map
- For timetables, see Travel planner of German Railways (covers Europe, as well as at least each branch of the Trans-Siberian Railway) and time-table with distances (pdf); note that Moscow time applies for railways throughout Russia.
- Travel Planner for Trans-Siberian, Trans-Manchurian and Trans-Mongolian Railways with real time train schedules
- The site about railways in C.I.S. and Baltics
- Guide to the Great Siberian Railway (1900)
- Google Earth Trans-Siberian Railway placemarks and path
- From London to Japan by train and ferry
- [2]