バレンタインデー あるいはセントバレンタインズデー (英語 : St. Valentine's day)は、2月14日 に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年 にローマ皇帝 の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス (テルニのバレンタイン)に由来する記念日だと、主に西方教会 の広がる地域において伝えられていた。
バレンタインデーの起源[編集 ]
ジェフリー・チョーサーの肖像(1412)。バレンタインデーとロマンスを関連づけている文書で、現在のところ最古のものと見なされているのはチョーサーのParliament of Foulesである。
ローマ帝国時代にまでさかのぼるとされる説[編集 ]
バレンタインデーの歴史は、ローマ帝国 の時代にさかのぼるとされる。
当時、ローマでは、2月14日 は女神・ユノ の祝日だった。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもある。翌2月15日 は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭 の始まる日であった。当時若い男たちと娘たちは生活が別だった。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていた。翌日、男たちは桶から札を1枚ひいた。ひいた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていた。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚した。
ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世 は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれている。キリスト教司祭だったウァレンティヌス (バレンタイン )は秘密に兵士を結婚させたが、捕らえられ、処刑されたとされる。処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれた。ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論である。
異説・異論[編集 ]
上述の逸話には歴史的背景の説明が必要である。初期のローマ教会は、当時の祭事から異教の要素を排除しようと努力した跡がみられる。ルペルカリア祭は排除すべきだが、ただ禁止しても反発を招くだけであったため、教会にはこの祭りに何かキリスト教に由来する理由をつける必要があった。そこで兵士の結婚のために殉教したとされるバレンタイン司教の助けを借りることにしたと考えられる。こうしてキリスト教以前からあったルペルカリア祭は、バレンタイン由来の祭りであると解釈を変更され、祭りはその後も続いた。前述のくじ引きでパートナーを選ぶ話も、ローマの宗教行事は野蛮であるという印象を与えるために初期キリスト教会によって創作されたものである可能性もある。
カトリック教会における祝日の扱い[編集 ]
カトリック教会 においては、第2バチカン公会議 後の典礼改革で、史実の上で実在が明らかでない聖人たちが典礼暦から整理された際に、2月14日のウァレンティヌスの記念日は取り除かれた。このため現在、カトリック教会では公式には祝日として祝われていない。事実、聖バレンタインに関する伝説は複数あり、没年が異なっていたり、細部が異なっていたりするものが複数伝えられているため、ウァレンティヌス自身の信憑性は低い。
シェイクスピア[編集 ]
For this was on seynt Volantynys day Whan euery bryd comyth there to chese [choose] his make [mate].
ウィリアム・シェイクスピア の戯曲『ジュリアス・シーザー 』の冒頭(第1幕第2場)に上記ルペルカリア祭の場面がある。ここでシーザーは占い師から「3月15日 に気を付けろ」という不吉な警告を受けることになる。
各地でのバレンタインデーの形[編集 ]
恋人 たちの愛 の誓いの日とされ、世界各地で様々な祝い方がある。
日本 では、1958年 ころから流行した[1] 。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。戦前に来日した外国人 によって一部行われ、戦後まもなく流通 業界 や製菓 業界 によって販売促進 のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代 後半であった。「主として女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのでは?と最初に考案して実践したのは、大田区の製菓会社である。
現代日本社会におけるバレンタインデー文化の、起源、普及過程、社会的機能、歴史的意義などについては、民俗学 、社会学 、宗教学 、歴史学 (文化史 、商業史 )の各分野から研究されるべき事項であるが、バレンタインデーに関するまとまった研究は存在しない。
日本のバレンタインデーの特徴[編集 ]
日本では、女性が男性に愛情の告白としてチョコレート を贈る習慣がある。
西欧 ・米国 でも恋人やお世話になった人にチョコレートを贈ることはあるが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもない。女性から男性へ贈るのがほとんどという点と、贈る物の多くがチョコレートに限定されているという点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴である。しかし最近では、チョコレートにこだわらず、クッキー やケーキ 、マフラーなどを贈る人もいる。また、「恋人までは行かないが、友人として」贈る「義理チョコ 」、同性(主に女性)間で贈り合ったりする「友チョコ」、男性が女性に渡す「逆チョコ」、自分で買って食べる「自己チョコ」というものもみられる。
「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となる[2] 。
贈答品にチョコレートが重視される点
女性から男性へ一方通行的贈答である点
(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点
このほか、職場における贈答習慣が強い点[3] や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点[4] も日本型バレンタインデーの特徴である。
日本のバレンタインデーの起源と紆余曲折[編集 ]
日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源については、以下のようなものがあるが、判然としていない。
神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ )説 東京で発行されていた英字新聞 『ザ・ジャパン・アドバタイザー 』1936年 2月12日 付けに同社が広告を掲載したことを重視するものである。「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告であった[5] 。確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。ちなみに以前モロゾフの本社があった最寄り駅の阪神御影駅 南側の広場はバレンタイン広場の名前がある。 メリーチョコレートカムパニー & 伊勢丹 説同社が1958年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重視する説である。 森永製菓 説、伊勢丹説1960年 より森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、さらに伊勢丹が1965年 にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となったとする説がある[6] 。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、1956年 の西武百貨店 や松屋 の新聞広告や、1959年 の松坂屋 の新聞広告にも掲載されており、デパート業界では伊勢丹が最初というわけではない。 ソニープラザ 説ソニー 創業者の盛田昭夫 は、1968年 に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈ることを流行させようと試みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている[7] 。
ただいずれにしても、すぐに大きな反響があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである[8] 。各種の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主張されたために誇張も含まれると思われる。
総じて昭和 30年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識はまだなかった。当時のバレンタインデーの新聞広告によると、購入を勧める贈答品にチョコレートは登場しなかった。森永製菓の広告ですら、チョコレートは贈答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永製菓の新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手紙などを)贈る日」として書かれていた。バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「愛の日」という点は強調されていた。
日本社会への定着と展開[編集 ]
デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたがなかなか定着せず、1968年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もあった。しかし、オイルショック (1973年)に見舞われ高度経済成長 が終焉した1970年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増した[9] 。オイルショックによる不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会 になった時期とも重なる。バレンタインデーにチョコレートを贈答するというのは、小学校 高学年から高校生 までの学生層から広まったという[9] 。1980年代 後半頃には主婦 層にも普及した。
前節で述べたように、当初は贈答品はチョコレートに限られておらず、誰とも交際していない女子から意中の男子へという形でもなかった。バレンタインデー普及には商業活動が一役買ったことは間違いないが、日本社会に受け入れられやすかった要素とそうでなかった要素があることが指摘されている[2] 。現在、一般に「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と認識されていること[10] とは裏腹に、バレンタインデー定着の過程には、小学校高学年から高校生の主導的な選択があったことが指摘されている。
義理チョコとホワイトデー[編集 ]
1970年代 後半頃に、女子が男子に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が社会に定着すると、さらに日本独自の習慣が登場した。1980年前半に登場したホワイトデー と義理チョコ である[9] 。ホワイトデーの起源については、福岡県 の和菓子屋 ・石村萬盛堂 のキャンペーンと、全国飴菓子工業協同組合 の構想が注目されている。1977年 に石村萬盛堂は、バレンタインデーの返礼としてマシュマロ デーを開始した。これは社長が女性雑誌の投稿欄を見て思いついたものだという。1979年 には他の菓子店と協同で「ホワイトデー」という名称を用いたとされる。
一方、全国飴菓子工業協同組合の主張によると、1978年 6月 の組合の総会で、「ホワイトデーキャンペーン」の実施が決定され、1980年 に第1回「愛にこたえるホワイトデー」キャンペーンが行われたという。そして2回目の1981年には「好きな女の子にキャンデー を贈ろう」というキャッチフレーズが添えられた。1984年 の第5回キャンペーンには各地で品不足になるほどの盛況となり、同組合では、この1984年をホワイトデー定着の年としている。
20世紀終盤から2000年代以降[編集 ]
日本のチョコレートの年間消費量の2割程度がこの日に消費されると言われるほど[11] の国民的行事となっており、2000年代 以降は後述のように多様化している。女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的以外にも、すでに交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着しているが、義理チョコは1990年代 後半以降衰退傾向にあり[12] 、2000年代後半から2010年代 前半においてもその傾向は継続している[13] 。また、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」の動きが2000年代初旬より広まってきてバレンタイン市場・商戦 を支える存在となっており[12] 、特に2000年代後半以降、友チョコの市場規模は拡大傾向となっている[14] [15] 。バレンタインデーにおけるチョコの売上停滞に危機感を抱いた関連業界の企業において、友チョコを重視したキャンペーンを行ったり、西欧・米国では当然でも日本では一般的でない行為、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった様々な展開で消費活性化 を図っている[12] [14] 。逆チョコは特に森永製菓 が積極的に展開しており、1960年と同じく2000年代後半以降も大々的なキャンペーンを行っていて、逆チョコ仕様の「逆ダース 」を期間限定発売するなど力を入れている[15] 。この時期はチョコレート販売店舗で特設会場が設けられたり、商品の種類が多様化するため、その試食を目当てにしたり、輸入品や高級品のように店頭在庫が珍しいものを自らのために買い求める「自分チョコ」を行う者も2000年代以降増えている[12] [14] [16] 。
上記のような習慣について日本人自身が抱く感想はさまざまである。近年では意識調査も行われている。#バレンタインデーのチョコのやりとりに関する日本での意識調査 を参照。
世界最大の恋愛・結婚マッチングサイト「マッチ・ドットコム ジャパン株式会社 」は、2009年2月5日 のプレスリリース にて「2月14日 に愛 のないチョコレート を形式的に贈答 する『義理チョコ 』をマッチ・ドットコム社内での配布禁止令」を発表した[17] 。
なお、2010年 頃より、日本の花業界(主に花小売店)が「フラワーバレンタイン 推進委員会」を結成し、バレンタインデーを「男性から女性に花を贈る日」として定着させようとする動きが起こっている。2012年 2月には「初代Mr.フラワーバレンタイン」として、元サッカー日本代表の三浦知良 選手(横浜FC 、2012年当時)が選出され話題を呼んだ[18] 。
2012年には、愛知県 内の中学校で、バレンタインデーでのチョコのやりとりが「校則 違反」とされ、クラブ活動 が活動停止となった事例もある。愛知県教育委員会 などへは、保護者などから抗議の投書が多数寄せられており、また、有識者や教育関係者からは、配慮不足との声が多数出ている[19] 。
バレンタインデーのチョコのやりとりに関する日本での意識調査[編集 ]
2006年 2月にインターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ 社が実施したバレンタインデーに関する独身男女(20代〜30代)に対するアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOL で70%、同じく男性社員 は50%であった。ただし、OLの反対意見では、女性の側から贈る習慣に反対しているのであって、男性側から贈られるのであれば賛成とする「ご都合主義的意見」も多かったとされる。同じく、男性側はホワイトデー のお返しが大きな金銭的な負担となっており、この義務的なイベントに対する不快感を強く持っている人が多い。妻子ある男性までも、他人の女性にプレゼントをすることを強要されており、その分のお金を妻や子供に対するサービスに費やしたいと考えている男性にとっても非常に人気がない。中には義務的なイベントを無理矢理作り出して、強制的にチョコを買わせるのは非人道的な卑劣な商法であるといった痛烈な意見もある[20] 。
また、労働法の専門家によると、職場内におけるバレンタインデー・ホワイトデー・おごりの強要は環境型セクシャルハラスメント の温床とされており、危険性を指摘する声もある。性別を理由に一定の義務を課し、本人の意に反する行為を強要するわけであるから、環境型セクシャルハラスメントにあたる。しかも、女性 のみならず『男性 が被害者 』になるセクシャルハラスメント である(2007年8月30日 読売新聞)。
一方、同じく2006年2月にマクロミル 社によって調査が行なわれ、全国の10代〜30代の1,030名の女性から回答を得た「バレンタインデーに関する調査」では、「日頃の感謝の気持ちを表す機会」が69%、次いで「コミュニケーション の円滑化」(49%)、「楽しい年中行事 」(32%)という回答結果であった。反対に「義務的なイベント」と回答した人は23%に留まっており、義理チョコに対してポジティブなイメージを持っている人が多いという結果となった[21] 。しかし、2007年2月同社による20歳以上39歳以下の会社員女性515名から回答を得た「バレンタインデーに関する調査」では「会社での義理チョコのやりとり、あった方がいい」が26%、「ない方がいい」が74%とネガティブなイメージがあり、調査年齢層の年齢が上がるほど否定的傾向が顕著に強くなる調査結果となった[22] 。
西欧・米国[編集 ]
西ヨーロッパ などでは、男性も女性も、花 やケーキ 、カード など様々な贈り物を、恋人や親しい人に贈ることがある日である。イギリスではカードには、「From Your Valentine」と書いたり、「Be My Valentine.」と書いたりもする。
西欧・米国では、日本に見られるような、ホワイトデー (バレンタインデーと対になるような日で日本が営利のために考案した)の習慣はない。
贈り物の種類はさまざまであるが、チョコレートも贈る習慣は、19世紀 後半のイギリス ではじまった。キャドバリー社 の2代目社長リチャード・キャドバリーが1868年 に美しい絵のついた贈答用のチョコレートボックスを発売した。これに前後して、キャドバリーはハート型のバレンタインキャンディボックスも発売した。これらのチョコレートボックス等がバレンタインデーの恋人などへの贈り物に多く使われるようになり、後に他の地域にこの風習が伝わっていった。なお、英語では固形チョコレートはキャンディの一種として扱われることもあるので、この製品のことを「キャンディボックス」と表記している文献もある。
正教会が優勢な地域[編集 ]
正教会におけるウァレンティヌス(ワレンティン)[編集 ]
聖ワレンティン(ウァレンティヌス)[23] を崇敬する正教会 の広がる地域では、西欧 文化の影響を受けるまでこのような習慣はなかった。
そもそも正教会暦 においては、3世紀 に致命(殉教) した2名の聖職者であった聖ワレンティン[24] (ウァレンティヌス)が記憶されているが、記憶日は2月14日ではなく、7月ないし8月である。
また、3世紀に致命した聖ワレンティンはもう1名いるが、彼は聖職者ではなく、現代のブルガリアにおける兵士であった。記憶日は4月24日 (ユリウス暦を使う正教会では5月7日 に相当)[27] 。
いずれの聖ワレンティンについても、西欧 に起源を持つ、恋人と関連付ける習慣は、正教会では特に行われない。
ただし、教会(正教会)内では祝われていないものの、商業主義により[28] 教会とは関係の無いイベントとして「バレンタインデー」が広がる傾向は、正教会が優勢な地域においても存在する。
ギリシャ[編集 ]
ギリシャ ではそれほど大きく祝われているわけではないものの、商業主義によって年々規模が拡大する傾向がある[28] 。
CIS(独立国家共同体)諸国[編集 ]
CIS(独立国家共同体) 諸国においてバレンタインデーが祝われ始めたのはソ連崩壊 後、1990年代 に入ってからである[29] 。
ベトナム[編集 ]
ベトナム は西欧・米国流で、男性が女性に尽くす日となっている[30] 。
サウジアラビア[編集 ]
サウジアラビア人の大半は近年までバレンタインデーの存在そのものを知らなかったが、近年の外国文化の流入によって一般的に認知されるようになってきた。
2004年 2月にサウジアラビア最高位の宗教指導者であるアブドルアジズ・アール=アッシャイフ がバレンタインデー禁止のファトワー を出した。「バレンタインデーは偶像崇拝を行うキリスト教の祝祭であり、アラー を崇拝するムスリムがこの祝祭を祝うことは許されない、神の怒りと罰をおそれこの祝祭を忌み嫌い否定することがムスリムの義務である」と表明した[31] 。このファトワーを受けて、サウジアラビアの宗教警察である勧善懲悪委員会 はバレンタインデーはイスラムの教えに反するとして本格的な禁止措置に乗り出し、店頭からバレンタインデー関連の商品を撤去させたりしている[32] 。しかし、宗教的な禁止にもかかわらず多くの人たちがバレンタインデーを行い、いくつもの業者が商品を販売している。
2009年 2月11日 に勧善懲悪委員会 の委員を務めるサッターム・ビン・アブドゥルアズィーズ 王子がサウジアラビア国営放送に出演してバレンタインデーを祝うものには最高刑で死刑もありうると発言するなど、取締りの過激化へ向かう方向へ進んでいる[33] 。
このような経緯から、サウジアラビアではバレンタインデーは違法行為となっており、全面禁止されている。
バレンタインデーから派生した文化[編集 ]
ホワイトデー バレンタインデーの1か月後である3月14日 を、主に男性から女性へ返礼のプレゼントをする日「ホワイトデー 」としている。代表的な贈り物は、チョコレートに対してクッキー ・マシュマロ ・飴 などである。 オレンジデー 近年では柑橘類生産農家などが4月14日 をオレンジデー と呼び、恋人同士(男性女性とも)でオレンジを贈りあい、愛情の確認をすることを提案しているが、2013年現在では社会への浸透は皆無に近い。 メイストームデー ことわざ「八十八夜の別れ霜 」より、バレンタインデーから88日後の5月13日 をメイストームデー と呼び、別れ話を切り出すのに最適な日としている[34] が、これも2013年現在では社会への浸透は皆無に近い。
ホワイトデー バレンタインデーの1か月後である3月14日 。日本と同様である。 ブラックデー バレンタインデーの2か月後である4月14日 。バレンタインやホワイトデーに縁の無かった男女が黒い物を飲食する日とされる。
参考文献[編集 ]
日本のバレンタインデー
(日本のバレンタインデーを知るのに有用な文献を掲げる。※は本稿記述に参照したものである)
川又一英 1984『大正十五年の聖バレンタイン』PHP 研究所
井上優 1993『大正ロマンをチョコレートに包んで』オリジン社
小笠原祐子 1998『OL たちの〈レジスタンス〉』中央公論社(第3章)
※石井研士 2005『日本人の一年と一生』春秋社
※山田晴通 2007「「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1)」『東京経済大学人文自然科学論集』124([4] [5] [6] )
関連項目[編集 ]