10時 @吹田市立博物館
北千里拓本クラブ
- 吹田市立博物館は、開館20周年-
大庄屋 中西家名品展 関連イベント
10時10分頃
・・・・・紫金山緑の会へ(公園の整備・草刈り・竹林整備 10:15~12:15 )・・・・・・・・12時30分頃から・・・
ビデオで記録をとりながら
拓本 と 魚拓
墨 朱肉 と の相違 体験談など・・・
- 拓本(たくほん)は伝統的な器物の複写の方法の一つ。凹凸のある石碑、器具(硯、青銅器など)に紙や絹を被せて密着させ、上からタンポに含ませた墨を打ち(上墨;じょうぼく)、凹凸を写しとること、また写し取った紙や布のこと。写しとられた器物の像を拓影という。凹んだ部分が白く、凸部分が黒く紙上に現れる。
鉛筆、固形の墨(釣鐘墨・拓本墨・蜡墨)などで擦って拓本をとることを乾拓という。紙や布を濡らして器物に密着させ、乾く前に上墨して拓影を得るものを湿拓という。対象の器物に紙等を載せた上から上墨することを間接拓といい、器物に直接墨を塗って、版画のように紙を押し付けて写しとるのを直接拓という。粗雑な魚拓をとる場合以外は通常直接拓を用いることはない。濃墨を数度に渡って上墨し、光沢のある拓影に仕上げるのを烏金拓(うきんたく)といい、対象の部分だけ、あるいは全体に薄く上墨した拓本を蝉翼拓(せんよくたく)という。
魚拓(ぎょたく)とは、釣りで釣った魚の像を、墨を使って紙などに転写したもの。 釣り上げた魚の原寸大の記録を残すために行われる。
魚に直接墨を塗り布や紙に写し取る「直接法」と、魚に布や紙を載せて、上から墨などで色をつける「間接法」がある。
最近では動物愛護の観点から、魚拓ではなく写真を撮りそれに代えることがある。特にルアー・フィッシングの愛好者は、魚を殺さず水に戻すのがエチケットになっている。この場合「物差し」を背景に写し、大きさを証明する。
後期難波宮に使われた
蓮華文 軒丸 瓦
唐草文 軒平 瓦
七尾瓦窯跡 ななおかわらがまあと
史跡 / 近畿
管理団体名:
S54-12-032[[七尾瓦窯跡]ななおがようあと].txt: 七尾瓦窯跡は、吹田市の中央東部に位置する。この地は平安宮に屋瓦を供給した吉志部瓦窯跡の北東200メートルの所にあり、吉志部瓦窯跡群の所在する丘陵延長線上の残丘先端にあたる。現地は標高17メートルで、比高差約2メートルの残丘となっており、瓦窯は南西から北東へのびる丘陵の北西斜面に並列して構築されている。昭和54年7月の発掘調査によって、7基の瓦窯跡の存在が確認された。このうち、北西斜面に残る主軸を東西方向にとる6基はすべて[[登窯]のぼりがま]であり、丘陵東端部東斜面に築かれた南北方向主軸の1基は平窯である。
調査時に完掘された瓦窯跡は3基であり、2基は登窯(2・3号窯)、1基は平窯(7号窯)である。2・3号窯はいずれもいわゆる有段有階登窯で、遺構の残存度も良好であり、特に3号窯は天井の一部を含めて窯体が完存しており、窯の構造の詳細を知ることができた。それによると、窯跡は全長5.4メートル、最大幅1.75メートルの規模で、7段の階段を有する焼成部・燃焼部とも良好に残存し、側壁には大型の日干し煉瓦が用いられていた。また、焼成部末端の段階部に、軒平瓦が窯詰の状態で検出されたのは稀な例であろう。なお、平窯の7号窯は大半が破壊されていた。
屋瓦類は多量に検出されたが、軒丸瓦・軒平瓦の型式は線鋸歯文珠文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦(6303型式)と、珠文縁均整唐草文軒平瓦(6664B型式)各1種のみで、セットして使用されるものである。
この組み合わせと同笵の瓦は、聖武朝難波宮の内裏及びその周辺部で数多く検出され、大安…
作品所在地の地図
難波宮
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。
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概要 [編集]
難波宮のことは史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。1913年(大正2年)大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。 1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。
山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という発言を残した。
前期難波宮 [編集]
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波に遷都し(難波長柄豊崎宮)、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
- 建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。
宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。
天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原・平城・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。
これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
後期難波宮 [編集]
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根[1]の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。
784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
史跡難波宮跡 [編集]
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。
難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前四丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
難波宮史跡公園の場所は、1871年(明治4年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。
2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。
難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
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