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赤塚不二夫さん死去
天才バカボン・おそ松くん
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赤塚不二夫
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赤塚 不二夫
本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日(72歳)
満州国熱河省
(現・中華人民共和国熱河省)
死没 2008年8月2日(満72歳没)
東京都文京区
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1956年 - 2002年
ジャンル ギャグ漫画、少女漫画
代表作 『天才バカボン』
『おそ松くん』
『もーれつア太郎』
『ひみつのアッコちゃん』
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文芸春秋漫画賞
(『天才バカボン』)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
紫綬褒章
表・話・編・歴
ウィキポータル
漫画作品
日本の漫画作品
漫画家
日本の漫画家
漫画原作者
漫画雑誌
カテゴリ
漫画作品
漫画 - 漫画家
プロジェクト
漫画作品 - 漫画家
赤塚 不二夫(あかつか ふじお、男性、1935年9月14日 - 2008年8月2日)は、日本の漫画家。『天才バカボン』『おそ松くん』などのギャグ漫画で知られている。本名は赤塚 藤雄(あかつか ふじお)。血液型A型。出生地は満州国(現・中華人民共和国)、戸籍上は新潟県出身。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 満洲~新潟時代
1.2 トキワ荘時代
1.3 フジオプロ設立
1.4 闘病生活、そして晩年
2 人物
3 フジオ・プロダクション
3.1 元アシスタント
4 作品リスト
4.1 原作付き
4.2 共同作品
4.3 代表されるギャグのセリフ
5 漫画以外の活動
5.1 全日本満足問題研究会
5.1.1 ライブ・イン・ハトヤ
5.2 面白グループ
5.3 出演番組
6 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
来歴
満洲~新潟時代
1935年、満州国熱河省に生まれる。「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げる。
1948年に、奈良市内の書店で手塚治虫の『ロストワールド』に出会い、漫画の執筆に没頭。12歳で『ダイヤモンド島』というSF巨編を書き上げ、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行う[2]。1949年、父親が帰国。父の故郷の新潟県に移り中学校を卒業後、市内の看板屋に2年間就職[3][2]。同時に「漫画少年」への投稿も始める。
トキワ荘時代
18歳の時に上京。東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら漫画少年へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人となった。が、つげ義春に独立を勧められ貸本漫画家として一本立ちする事を決意。同人のよこたとくおと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となり1956年、曙出版から書き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[2]。
その後、不二夫も上京した石森を手伝う形で鈴木伸一や藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。後にブレイン役として長く不二夫を支えた長谷邦夫ともこの頃知り合う。
当時の不二夫は石森のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていた。横山光輝の出張アシスタントも経験。1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石ノ森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」[4]名義で作品を発表した。
合作の楽しさから続いて石ノ森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」[5]で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。同年、「まんが王」(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画『ナマちゃん』がヒットしてそのまま連載扱いになる。1961年、結婚のためにトキワ荘を退去[6]。
フジオプロ設立
1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1964年、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
1965年、長女のりえ子が誕生[7]。また同年、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。また、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った[8]。1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌「まんがNo.1」を刊行。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊[9]。1974年、実験的に山田一郎というペンネームを使うが3ヶ月で元に戻した。1975年、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列でテレビアニメ化。
闘病生活、そして晩年
1987年、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと前妻がすすめたことにより、眞知子と結婚。1988年、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系列で再びテレビアニメ化。さらに1990年には『平成天才バカボン』がフジテレビ系列で、『もーれつア太郎』がテレビ朝日系列でテレビアニメ化。
1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]。
1997年、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年、『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系で3度目のテレビアニメ化。同年、紫綬褒章受章。食道がんの手術を受ける[7]。1999年、『レレレの天才バカボン』がテレビ東京系でテレビアニメ化。2000年、硬膜下血腫で手術[7]。
2002年4月に脳内出血を起こし倒れ、創作活動を休止。同年、小学館から『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』(デビューからの作品を集めたDVD全集)が発売された。2003年、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[11]。
2006年7月12日には、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝[12]。
「なぎら健壱FC会報」によると2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げたテレビ朝日の『報道ステーション』で、赤塚が意識不明であると改めて伝えられた。2008年2月24日にはちばてつやが不二夫を見舞い、似顔絵をブログで公開した[13]。
2008年8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の順天堂医院で死去した。享年74(満72歳没)。[14]
赤塚の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また、民放ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げられた。漫画好きで知られる衆議院議員の麻生太郎(自民党幹事長)は「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で『シェー』をはじめ、よく笑った」とコメントした[15]。
また、赤塚の最初の妻であり長女りえ子の実母が、赤塚の死去の3日前の7月30日に死去していた事が後に報じられた[16][17]。
赤塚の葬儀では、藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなった[16]。
人物
この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。
愛猫家。1979年から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者に。不二夫自身も『花の菊千代』(100てんコミック連載)といった漫画を描いた。しかし1997年に菊千代は他界、不二夫自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。
トキワ荘時代には、トキワ荘一の美青年として認識されていた。
映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数万本の映画のビデオがあるという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。
テレビの司会を担当したことを機に、不二夫の交流は立川談志、荒木経惟、唐十郎など各界に広がった。1970年代半ばには山下洋輔等を介してタモリと出会う。タモリの芸を認めた不二夫は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、その後由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となった。
作品を通して様々な社会現象を起こしてきた。初期代表作『おそ松くん』のイヤミの「シェー」のポーズは当時の日本で知らない人はいないほどの爆発的な人気を巻き起こし、ジョン・レノンや皇太子徳仁親王、さらにはゴジラまでが「シェー」をした。
視覚障害者向けに触図と点字でギャグ漫画を書くという画期的な試みを行い、2000年8月16日の毎日新聞に紹介された。同年8月21日に点字の漫画本が発売されると、点字本としては空前のベストセラーになった。
1970 - 80年代の映画のプロデューサーあるいは音楽選曲担当者に同姓同名の「赤塚不二夫(もしくは赤塚不二男)」がおり、ふたりは親交があった。
フジオ・プロダクション
1965年に長谷、古谷、横山孝、高井等と設立。長谷と古谷が主にブレーンを務め、不二夫がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉など)が下絵を完成させて製作を進行。全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていた[18]。
現在は故・眞知子夫人に替わって長女のりえ子(ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、フジオ・プロダクションの社長を務めている。
元アシスタント
フジオプロの場合、特に古株は赤塚と年齢も近いため師弟関係はなく実質的共同製作者である。
長谷邦夫/古谷三敏/高井研一郎/横山孝雄/北見けんいち/とりいかずよし/土田よしこ/あだち勉/佐々木ドン/木崎しょうへい/てらしまけいじ/河口仁/及川こうじ/キリ光乗/近藤洋助/椎屋光則/なかのゆみ/南ひろゆき
作品リスト
赤塚不二夫さん死去
天才バカボン・おそ松くん
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赤塚不二夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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このページは半保護の方針に基づき、一部ユーザーによる編集から保護されています。
この項目は現在進行中の事象を扱っておりますが、ウィキペディアはニュース速報ではありません。性急な編集をせず事実を確認し、正確な記述を心がけてください。またウィキニュースへの投稿も検討してみてください。なお、この内容は不特定多数のボランティアにより自由に編集されていることを踏まえ、自身の安全利害に関わる情報は自己責任でご判断ください。
赤塚 不二夫
本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日(72歳)
満州国熱河省
(現・中華人民共和国熱河省)
死没 2008年8月2日(満72歳没)
東京都文京区
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1956年 - 2002年
ジャンル ギャグ漫画、少女漫画
代表作 『天才バカボン』
『おそ松くん』
『もーれつア太郎』
『ひみつのアッコちゃん』
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文芸春秋漫画賞
(『天才バカボン』)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
紫綬褒章
表・話・編・歴
ウィキポータル
漫画作品
日本の漫画作品
漫画家
日本の漫画家
漫画原作者
漫画雑誌
カテゴリ
漫画作品
漫画 - 漫画家
プロジェクト
漫画作品 - 漫画家
赤塚 不二夫(あかつか ふじお、男性、1935年9月14日 - 2008年8月2日)は、日本の漫画家。『天才バカボン』『おそ松くん』などのギャグ漫画で知られている。本名は赤塚 藤雄(あかつか ふじお)。血液型A型。出生地は満州国(現・中華人民共和国)、戸籍上は新潟県出身。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 満洲~新潟時代
1.2 トキワ荘時代
1.3 フジオプロ設立
1.4 闘病生活、そして晩年
2 人物
3 フジオ・プロダクション
3.1 元アシスタント
4 作品リスト
4.1 原作付き
4.2 共同作品
4.3 代表されるギャグのセリフ
5 漫画以外の活動
5.1 全日本満足問題研究会
5.1.1 ライブ・イン・ハトヤ
5.2 面白グループ
5.3 出演番組
6 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
来歴
満洲~新潟時代
1935年、満州国熱河省に生まれる。「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げる。
1948年に、奈良市内の書店で手塚治虫の『ロストワールド』に出会い、漫画の執筆に没頭。12歳で『ダイヤモンド島』というSF巨編を書き上げ、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行う[2]。1949年、父親が帰国。父の故郷の新潟県に移り中学校を卒業後、市内の看板屋に2年間就職[3][2]。同時に「漫画少年」への投稿も始める。
トキワ荘時代
18歳の時に上京。東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら漫画少年へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人となった。が、つげ義春に独立を勧められ貸本漫画家として一本立ちする事を決意。同人のよこたとくおと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となり1956年、曙出版から書き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[2]。
その後、不二夫も上京した石森を手伝う形で鈴木伸一や藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。後にブレイン役として長く不二夫を支えた長谷邦夫ともこの頃知り合う。
当時の不二夫は石森のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていた。横山光輝の出張アシスタントも経験。1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石ノ森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」[4]名義で作品を発表した。
合作の楽しさから続いて石ノ森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」[5]で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。同年、「まんが王」(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画『ナマちゃん』がヒットしてそのまま連載扱いになる。1961年、結婚のためにトキワ荘を退去[6]。
フジオプロ設立
1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1964年、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
1965年、長女のりえ子が誕生[7]。また同年、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。また、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った[8]。1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌「まんがNo.1」を刊行。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊[9]。1974年、実験的に山田一郎というペンネームを使うが3ヶ月で元に戻した。1975年、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列でテレビアニメ化。
闘病生活、そして晩年
1987年、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと前妻がすすめたことにより、眞知子と結婚。1988年、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系列で再びテレビアニメ化。さらに1990年には『平成天才バカボン』がフジテレビ系列で、『もーれつア太郎』がテレビ朝日系列でテレビアニメ化。
1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]。
1997年、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年、『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系で3度目のテレビアニメ化。同年、紫綬褒章受章。食道がんの手術を受ける[7]。1999年、『レレレの天才バカボン』がテレビ東京系でテレビアニメ化。2000年、硬膜下血腫で手術[7]。
2002年4月に脳内出血を起こし倒れ、創作活動を休止。同年、小学館から『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』(デビューからの作品を集めたDVD全集)が発売された。2003年、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[11]。
2006年7月12日には、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝[12]。
「なぎら健壱FC会報」によると2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げたテレビ朝日の『報道ステーション』で、赤塚が意識不明であると改めて伝えられた。2008年2月24日にはちばてつやが不二夫を見舞い、似顔絵をブログで公開した[13]。
2008年8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の順天堂医院で死去した。享年74(満72歳没)。[14]
赤塚の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また、民放ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げられた。漫画好きで知られる衆議院議員の麻生太郎(自民党幹事長)は「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で『シェー』をはじめ、よく笑った」とコメントした[15]。
また、赤塚の最初の妻であり長女りえ子の実母が、赤塚の死去の3日前の7月30日に死去していた事が後に報じられた[16][17]。
赤塚の葬儀では、藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなった[16]。
人物
この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。
愛猫家。1979年から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者に。不二夫自身も『花の菊千代』(100てんコミック連載)といった漫画を描いた。しかし1997年に菊千代は他界、不二夫自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。
トキワ荘時代には、トキワ荘一の美青年として認識されていた。
映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数万本の映画のビデオがあるという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。
テレビの司会を担当したことを機に、不二夫の交流は立川談志、荒木経惟、唐十郎など各界に広がった。1970年代半ばには山下洋輔等を介してタモリと出会う。タモリの芸を認めた不二夫は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、その後由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となった。
作品を通して様々な社会現象を起こしてきた。初期代表作『おそ松くん』のイヤミの「シェー」のポーズは当時の日本で知らない人はいないほどの爆発的な人気を巻き起こし、ジョン・レノンや皇太子徳仁親王、さらにはゴジラまでが「シェー」をした。
視覚障害者向けに触図と点字でギャグ漫画を書くという画期的な試みを行い、2000年8月16日の毎日新聞に紹介された。同年8月21日に点字の漫画本が発売されると、点字本としては空前のベストセラーになった。
1970 - 80年代の映画のプロデューサーあるいは音楽選曲担当者に同姓同名の「赤塚不二夫(もしくは赤塚不二男)」がおり、ふたりは親交があった。
フジオ・プロダクション
1965年に長谷、古谷、横山孝、高井等と設立。長谷と古谷が主にブレーンを務め、不二夫がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉など)が下絵を完成させて製作を進行。全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていた[18]。
現在は故・眞知子夫人に替わって長女のりえ子(ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、フジオ・プロダクションの社長を務めている。
元アシスタント
フジオプロの場合、特に古株は赤塚と年齢も近いため師弟関係はなく実質的共同製作者である。
長谷邦夫/古谷三敏/高井研一郎/横山孝雄/北見けんいち/とりいかずよし/土田よしこ/あだち勉/佐々木ドン/木崎しょうへい/てらしまけいじ/河口仁/及川こうじ/キリ光乗/近藤洋助/椎屋光則/なかのゆみ/南ひろゆき
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