5ヶ所
1-駅の近く 2-駅↓クリエテのあったとこ 3-図書館・プロネタのあったとこ ・・・佐竹台の団地に行く2階の歩道から/1階では巻くが張られ見られない。
ツバメの巣 改札の北 ↑
4-千里NTプラザ 6階 ラコルタの東 5-佐竹台2丁目交差点前
右奥 千里プラザ 8階建て 久しぶりに プラザの前交差点を右折れ
阪急クリエテ 跡形もなく 残念 花・植木などの販売所があった 当初は 「コナ-ン」
種類 | 株式会社 | |||||
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市場情報 |
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本社所在地 | ![]() |
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設立 | 1978年9月20日 | |||||
業種 | 小売業 | |||||
事業内容 | DIY商品の小売を中心としたホームセンター事業 | |||||
代表者 | 疋田直太郎(代表取締役社長) | |||||
資本金 | 176億58百万円(2013年2月現在) | |||||
発行済株式総数 | 34,682,113株 | |||||
売上高 | 2,718億円(2013年2月期) | |||||
純資産 | 831億円(2013年2月現在) | |||||
総資産 | 2,528億円(2013年2月現在) | |||||
従業員数 | 正社員 2,600人、準社員 6,854人 (2013年2月現在) | |||||
決算期 | 2月末日 | |||||
主要株主 | 疋田耕造 9.38% 日本トラスティ・サービス信託銀行(信託口) 6.89% 港南株式会社 5.88% 疋田直太郎 5.17% 日本マスタートラスト信託銀行(信託口) 4.55% (2013年2月末) | |||||
主要子会社 | 大阪エイチシー株式会社 コーナンロジスティック株式会社 | |||||
外部リンク | コーナン商事株式会社 公式サイト | |||||
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コーナン泉大津店 (大阪府泉大津市)
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コーナンフレスポ東大阪稲田店 (大阪府東大阪市)
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コーナンは、ホームセンターコーナン(HC)、コーナンPRO(コーナンプロ)、コーナンホームストック(home stock)の名称でホームセンターを近畿地方を中心に営業しているチェーンである。コーナン商事株式会社が運営している。本社は、大阪府堺市西区に所在する。
2000年代以降は品揃えと価格の強化に力を注いでおり、一般向け商品からプロユースまで幅広い必要性に対応できる商品構成を目指している。売り場面積が2,000坪以上の広い店舗もある。
Deep Discount & Convenience Home Center(安さと利便性を追求した小型ホームセンター)を店舗コンセプトに、人口8,000 - 1万5,000人の商圏を対象にしている。自社開発商品である「毎日がお得値品(EDLP)」を核としたコンビニ型ホームセンターで、売り場面積は300坪、取り扱い商品数は2万2,000商品となっている。
建築・塗料・作業用品を核とした職人向け店舗。開店時間が朝7時と一般店よりも早く、現場へ行く前に立ち寄れるよう利便性を高めている。
店舗は近畿を中心に、東北(宮城県)・関東(東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県)・中部・中国・四国・九州(福岡、長崎)地方で展開(2013年2月末現在)。
1978年(昭和53年)9月に設立し、同年12月に1号店として大阪府堺市に泉北店が開店した。古い店舗では敷地が狭く手狭な場合も多く、後になり近隣の土地を借り増して別館を建設したり駐車場を増設したりして対応している場合もある。2000年代以降の出店では、自動車での来店を予め見越した郊外型の店舗も多くなってきている。
大阪をはじめ近畿地方を地盤としているが、滋賀県ではアヤハディオが強いこともあり、草津店(コーナン+生鮮スーパーハズイ+ジョーシンの複合型)のみの出店に留まっている(以前存在した大津市の雄琴店は2006年2月19日をもって閉店)。2000年代以降では名古屋市や東京、千葉県にも出店し、多店舗化を計っており、経営破綻したオサダが退去した店舗に出店することで、九州に約15年ぶりに再進出した。しかし同時に、年間数軒はスクラップアンドビルドによって閉店しており、特に九州地区は福岡空港店が1年経たずに撤退するなど不振なため、新規出店を凍結したが、2011年に八女店を出店した。
ホームセンターは郊外部に出店することが多いが、コーナンの場合は大阪府中心部にも出店しているのが特徴で、ジョーシン(家電量販店)、ライフ(食品スーパー)、コーナンなどの1棟同居型(コーナン+食品スーパー(地域により異なる)+大型専門店、家電量販店)といったタイプの店舗も多数あり、利便性を獲得している。
ワークマン(作業服専門店)などに対抗して、早朝から開店する店もある。ただし開いているフロアは原則として資材館(工事資材・工事用品など)のみに限定される。
またぐりーんうぉーく多摩を開発するなど、デベロップメント事業も展開している。
SOUTHERNPORT(サザンポート)
LIFELEX(ライフレックス)
EDLP(エブリディ・ロー・プライス)
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この項目では、奈良県にある真言宗寺院について記述しています。長野県にある天台宗寺院については「長岳寺 (阿智村)」をご覧ください。 |
長岳寺 | |
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所在地 | 奈良県天理市柳本町508 |
位置 | ![]() |
山号 | 釜の口山(かまのくちさん) |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 伝・天長元年(824年) |
開基 | 伝・空海、淳和天皇(勅願) |
別称 | 釜口大師 |
札所等 | 関西花の寺二十五霊場19番 大和十三仏霊場4番 |
文化財 | 楼門・五智堂・木造阿弥陀如来両脇侍像ほか(国の重要文化財) |
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長岳寺(ちょうがくじ)は奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。山号は釜の口山(かまのくちさん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は空海(弘法大師)とされる。関西花の寺二十五霊場第19番札所。日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。釜口大師の名で親しまれている。
天長元年(824年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。盛時には48もの塔頭が建ち並んでいた。
境内の面積は約40000m2と広く、八十八箇所道が竜王山中腹の奥の院まで巡らされている。
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ウィキメディア・コモンズには、長岳寺に関連するメディアがあります。 |
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この「長岳寺」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 | ![]() |
長浜城 浜城
司馬遼太郎 「功名が辻」
この項目に含まれる文字「辻」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 |
功名が辻 | |
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山内一豊、千代婚礼の地(岐阜市)
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作者 | 司馬遼太郎 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 長編小説 |
発表形態 | 新聞連載 |
初出 | 地方紙 1963年10月-1965年10月 |
刊行 | 1965年、文藝春秋 |
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『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、司馬遼太郎の歴史小説で、1963年(昭和38年)10月から1965年(昭和40年)1月にかけ、各地方紙に連載された[1]。題名「功名が辻」の辻は「十字路、交差点、路上」という意味である。
司馬作品には珍しく、後に良妻賢母の見本ともなった、千代という女性を主人公の1人にした作品となっている。牢人から織田家に仕官し、後に長浜城主、掛川城主を経て土佐藩主となった夫山内一豊の転戦、苦悩、そして出世と、それを支え続けた妻の千代を中心に、合戦を通じて信長、秀吉、家康の3人の天下人が絡んでくる。史実や大河ドラマと違って、千代の母が法秀院という設定になっており、作品中では千代自身が縫った小袖のエピソードなども盛り込まれている。
天下へ突き進む織田信長の軍勢の中に、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれる山内伊右衛門一豊がいた。岩倉織田氏の家臣であった父を亡くし、仇敵である信長に仕官したそんな一豊のもとに、千代という美しい娘が嫁いできた。婚礼の夜、千代の夢は伊右衛門が一国一城の主となることを約束し、木下藤吉郎秀吉の引きもあって、負傷や苦戦を重ねつつも、千代の励ましもあって少しずつ出世の道を上って行き、信長の家臣ながら与力として秀吉に仕え、後に秀吉の家臣となる。信長の安土城が築かれつつあったある日のこと、京での馬ぞろえを前に、城下で駿馬を売る商人を見かけた一豊は、一旦は諦めたものの、話を聞いた千代は秘蔵の小判を差し出してその馬を手に入れるよう促す。その小判は、伯父である不和市之丞が、夫の大事な時に使うようにと千代に持たせたものだった。一豊は日頃から、手柄を得るために分にそぐわない多くの家臣を(千代の入れ知恵で)抱えていたため自身は貧乏続きであり、そんな自分に妻が秘密でへそくりを隠していた上、金を一方的にあてがわれる事に一時憤慨するが、千代の泣き落としにあって結局金を受け取って馬を買い、その後の京都御馬揃えにて名声を博した。
天正5年(1577年)、一豊は中国攻めにも従軍するが、その間に明智光秀が本能寺で信長を討つ。この知らせを聞いた秀吉は、急いで毛利方と和睦し、その後光秀打倒に走る。後に秀吉は後継者選びで柴田勝家と対立し、勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。この時一豊は伊勢亀山城の包囲で、家臣の一人である五藤吉兵衛を失い、吉兵衛のためにも戦後の石高加増を望むが、加増は微々たるもので、その後一豊は登城もせず引きこもり、牢人したいと言い出すようになる。千代は笑巖という托鉢僧に一豊を説得するように頼み、笑巖は脇差で半ば脅すようにしながら、現実から逃げずに浮世の主人となれと一豊に諭す。結局一豊はその後の小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と和睦し、関白となった秀吉から近江長浜城を賜り、二万石取りとなる。その後の地震で一人娘のよねを失い、一時は喪失感に襲われるも、その後再び秀吉について京に入る。その京では千代が手すさびに唐織の端切れを集めて縫った小袖が評判となり、夫である一豊のにも影響を与えることになった。
しばらくして一豊の京都屋敷に捨て子があり[注釈 1]、よねを失った夫妻はこの子に拾(後の湘南宗化)と名付けて、後継者にしようとするが、捨て子ということもあって思いとどまり、少年の時に出家させてよねの菩提を弔わせる。また一豊は、初めて異父弟である康豊を連れて秀吉の小田原征伐に従軍して、秀吉の攻めの才覚に舌を巻く。その後小田原の北条氏は降伏し、この地は家康のものとなる。また秀吉は、甥の秀次に関白職を譲るが、秀次の素行の悪さと秀頼の誕生から、秀次は疎まれて高野山で処刑され、妻妾と子供たちは三条河原で死刑にされた。その残酷さや、朝鮮出兵に多くの大名が出向いているさなか[注釈 2]に、当の大名たちから金を集めての伏見城建設に、千代は秀吉への嫌悪感を募らせる。その秀吉は、千代を始め大名の夫人たちに懸想するようになり、また、側室の淀殿も千代を自分の派閥に入れようとするが、千代はそれらをうまくかわす。
秀頼のために金を湯水のように使い、仮装園遊会や醍醐の花見など派手な遊びを催した秀吉も老い、その年の端午の節句に倒れて、8月に他界して家康が事実上の支配者となう。同時に、石田三成の謀反の噂が駆け巡り、自重していた一豊も、旗幟を鮮明にせざるを得なくなる。動き出した家康は、一豊を始め、北政所派の大名を取り込んで対三成色を鮮明にして行き、小山評定で一豊は、他の大名同様に自らの城を家康に明け渡す決意を述べる。そんな折、大坂の千代に文箱入りの書状が届けられた。文箱の書状は三成挙兵の知らせと思われたが、千代は開封せず、夫に家康への忠誠を尽くすよう記した自筆の手紙を二部作り、一部を文箱に入れ、もう一部を、使者の田中孫作の笠の緒に編み込んで届けさせた[注釈 3]。一方で一豊からも、千代を石田支配下の大坂から逃すべく市川山城が使わされた。家康に与する大名の妻子を人質に取っていた三成は、細川ガラシャの自刃によりその策を捨て、家康を追って東へ大軍を進める。
慶長5年(1600年)9月15日(西暦1600年10月21日)、ついに家康の東軍と三成の西軍は関ヶ原の戦いで相まみえる。当初は西軍有利であったが、西軍の中から裏切りが出始め、足並みが揃わなくなってついには敗走し、家康は名実ともに天下を掌握する。戦後の大名の転封で、一豊は土佐国二十万石を与えられる、関ヶ原そのものではさほどの働きもなかったが、戦前に掛川城を明け渡したのを評価されての論功行賞であった。しかし土佐は長曾我部氏の侍、それも一領具足と呼ばれる半農半兵の力が強く、長曾我部家を守るために武力衝突も辞さない構えで、一豊は忍び同然で土佐入りし、城を改築し、城下を整える準備をする。また、言うことを聞かない侍たちを処刑し、新国主として厳しい構えも辞さない姿勢を見せる。千代は夫の強硬なやり方には不満があったが、養子である湘南和尚は、この状況では武断政治もやむをえないと千代に告げる。一領具足に手を焼く一豊は徳川方から国主失格の烙印を押されるのを恐れるあまり、相撲大会と称して有力な一領具足を種崎浜に集め、そこで一挙に騙し討ちにした(種崎事件)。これを機に国人の反抗は沈静化するが、無実の者も構わず粛清する一豊に千代は深く失望した。
一豊は百々越前守に命じて治水工事、土地造成を行ったのち高知城を築き、慶長10年(1605年)、評定中に61歳で高知城で世を去った。千代はその後京に移り住み、権力の帰趨を見届けた後、元和3年(1617年)に、夫と同じ61歳で没した。
千代の出自には複数の説があり、ひとつは近江の土豪である若宮氏を出自とするもの、細川氏の出身、不破市三郎の娘とする説もある[3]本作では執筆当時に知られていた[要出典]美濃不破氏説が採用されている。また、美濃の豪族東家系(要出典)遠藤氏の系譜という説もある。これは本作品が執筆された後に出て来た説である[4]。また生誕地は郡上市とも言われるが、2006年の大河ドラマでは米原市飯村に設定されている[5]。また名前も千代の他にまつとする説もある[6]。
金ヶ崎の戦いで、朝倉家の家臣三段崎勘右衛門が放った矢が一豊の頬を射抜き、五藤吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜いたという話があるが、その矢の矢じりは現存し、安芸市の歴史民俗資料館に展示されている。その時吉兵衛がはいていたとされるわらじも同資料館にある[7]。
土佐入国後は、長曾我部氏の家臣との対立にも悩まされた。土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長によれば、種崎浜で反抗する領民を虐殺したことも、戦国時代では珍しくはなかったとされるが、土佐では山内家は進駐軍のような見方をされるといわれ、この対立感情が幕末まで尾を引くことになる[8]。同じ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、安政6年(1859年)の3月4日に、酔っぱらった上士に軽格(郷士)がぶつかったことから騒ぎとなり、両者の対立に竜馬が出て行って、元々山内家の家臣で、掛川から来た上士に「掛川衆」と呼びかける部分が登場する。郷士は「長曾我部衆」である。また上士を山内侍、郷士を土佐侍と呼んだとも記されている[9]。
山内氏18代当主山内豊秋は、この作品を以下のように批判している。
司馬遼太郎さんの『功名が辻』では、愚図な駄目男とされ、土佐守になると、賢夫人のコントロールが効かなくなり、暴虐を尽くす。小説としてはおもしろいが、これでは一豊夫妻のセールス・ポイントが消滅してしまう。一豊夫妻は一生緊密であり、夫人の政治感覚や晩年、禅の達人であることなどは別としても、一豊自体、剛将・謀将にして、また政治・経済・農政・土木に長じ、さらに鉄砲や蹴鞠まで嗜む万能選手で、わが家の歴代ではピカ一である。難治の土佐統治も、やり抜いたと目される。小説であっても、歴史小説であるからには、史実の中核を抹殺するがごときフィクションを記してよいものか。乃木大将の旅順攻略を、戦術の無能者として断ずることへの世人の反発とともに、史料不足か早とちりである。敬愛する司馬さんに盾突きたくないが、この件は先祖のために反論しておきたい。
—[10]
以上の点に関しては、作者の司馬自身が「若いころに書いた作品で、自分でも不満があった」と言っている[11]。しかしその後、19代当主の山内豊功は、2006年に大河ドラマ化された作品を見て、「豊臣秀次や堀尾吉晴、中村一氏という、これまであまり登場することのなかった人物が出てきて面白い」「脚本家ががんばっている」と述べ、また原作に関しては「小説と史実は異なるもの」として、「判断力がなければ戦国の世は生き残れず、やはり一豊はピカイチだった」と語っている[12]。
他に、望月六平太、小りんといった架空人物を登場させているが、物語の途中でその存在意義を失くすという点が欠陥とも指摘される[要出典]。
1963年(昭和38年)10月から1965年(昭和40年)1月にかけ、各地方紙に連載され[13]、同65年に文藝春秋新社で刊行された要出典。
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↑ 今一度
平成26年1月25日(土) 夕刊 朝日新聞
投稿情報: 15時57分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
平成26年1月25日(土) e6 朝日新聞
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「ペンギン」のその他の用法については「ペンギン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
ペンギン目 | ||||||||||||||||||||||||
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分類 | ||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||
Sphenisciformes Sharpe, 1891 | ||||||||||||||||||||||||
シノニム | ||||||||||||||||||||||||
Spheniscomorphae Impennes Eupodornithes |
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和名 | ||||||||||||||||||||||||
ペンギン 人鳥(じんちょう) 企鵝(きが) | ||||||||||||||||||||||||
英名 | ||||||||||||||||||||||||
Penguins | ||||||||||||||||||||||||
科・現生属 | ||||||||||||||||||||||||
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![]() 全ての種の生息域
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ペンギン (英語: penguin) は、鳥類ペンギン目(学名 Sphenisciformes)に属する種の総称である。ペンギン科(学名 Spheniscidae)のみが現生する。
今では使われることは稀だが、「人鳥(じんちょう)」「企鵝(きが、企は爪先立つの意、鵝はガチョウ)」[2]という和名もある。
南半球の広い緯度範囲に分布する。主に南極大陸で繁殖するのはコウテイペンギンとアデリーペンギンの2種のみである。ほかに、ジェンツーペンギン・マカロニペンギン・ヒゲペンギンの3種は、南極大陸の中でも比較的温暖な南極半島にも繁殖地があるが、主な繁殖地は南極周辺の島である。他の種類は南アメリカ・アフリカ南部・オーストラリア・ニュージーランド、あるいは南極周辺の島などに繁殖地がある。
最も低緯度にすむのは赤道直下のガラパゴス諸島に分布するガラパゴスペンギンであり、その生息域は赤道を挟みわずかに北半球にはみ出ている。
これらの中低緯度の繁殖地はいずれも、南極海周辺から寒流の流れて来る海域に面している。
ペンギンは、現在では6属19種だが、化石から、かつてはもっと多くの種類が存在したことがわかっている。属や種を特徴付けるのは頭部周辺で、それぞれ特徴的な形態をしている。
現生ペンギンの最小種はコガタペンギン(リトルペンギン、フェアリーペンギン、Eudyptula minor)で体長は約40cmである。
現生最大種はコウテイペンギン (Aptenodytes forsteri) で、体長100-130 cmに達する。ただし、絶滅種のジャイアントペンギン (Pachydyptes ponderosus) や、ノルデンショルトジャイアントペンギン (Anthropornis nordenskjoeldi) はコウテイペンギンよりも更に大型である。
多くの鳥類は陸上では、胴体を前後に倒し首を起こす姿勢をとるが、ペンギン類は胴体を垂直に立てる。鳥類の多くが飛翔に使う翼は特殊化し、ひれ状の「フリッパー」と化していて飛翔能力を失い水中の遊泳にのみ使われる。首が短く、他の鳥類とは一線を画す独特の体型をしている。
世間一般では「脚が短い」と思われているが、実際には体内の皮下脂肪の内側で脚を屈折している。関節はこの状態のまま固定されているので、脚を伸ばすことはできない。体外から出ているのは足首から下の部分だけである。成鳥ではほとんど脂肪に隠されており表面上見えないが、生後まもなくの脂肪の少ないペンギンではその骨格がはっきりと見てとれる。
陸上ではフリッパーをばたつかせながら歩く姿がよく知られているが、氷上や砂浜などでは腹ばいになって滑る。これをトボガンという[3]。
海中では翼を羽ばたかせて泳ぐ。ペンギン類で最も速いジェンツーペンギンの水中速度は最大36 km/hに達する。イルカのように海面でジャンプすることもあり、水中から陸上に戻るときにはいったん深く潜り、勢いを付けて飛びあがる。独特の体型は泳ぐことに特化しており、海中を自在に泳ぎ回る様はしばしば「水中を飛ぶ」と形容される。
陸上で繁殖する。卵は1個〜3個を産み、オスとメスで抱卵をする。またコウテイペンギンのように、ある程度成長したヒナ同士で集まり「クレイシュ」(crèche。フランス語で託児所の意。クレイシとも)を形成するものがある。また、羽毛が抜け替わる換羽期には海に入らず、絶食状態で陸上にとどまる種もいる。
ほとんどのペンギンは他の鳥類と同様に春から夏にかけて繁殖するが、最大種のコウテイペンギンは、-60℃に達する冬の南極大陸で繁殖する。そのため、世界で最も過酷な子育てをする鳥と言われる。
系統樹の目間は Hackett et al. (2008)[4]、目(科)内は Baker et al. (2006)[5]より。
water birds |
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ペンギン目は海鳥・渉禽類(の一部)からなるクレード water birds の一員である。姉妹群は外洋性の海鳥のミズナギドリ目である。
ペンギン目は現生科に関しては単型である、つまり、ペンギン科のみが属す。
従来は1種とされてきたイワトビペンギン Eudyptes chrysocome sensu lato の3亜種は、遺伝子の比較により別種と判明した[7][6]。
従来は種または亜種とみなされてきたハネジロペンギン Eudyptula albosignata は、コガタペンギン Eudyptula minor に含められ、さらにコガタペンギンの他の亜種と共に、亜種の地位も否定された[8][6]。
かつてはロイヤルペンギンとマカロニペンギン、ハシブトペンギンとキマユペンギンを同種とする説もあったが、遺伝的差異は別種に相当する[5]。
歴史上のペンギン分類には大きく分けて、いずれかの海鳥の仲間だとする説と、他に類縁のない独特のグループだとする説とがあった。
Nitzsch (1840) はペンギンを、アビ類・カイツブリ類・ウミスズメ類と共に Pygopodes に分類した。ほぼ同じグループを Garrod (1873; 1874) は Anseres、Reichenow (1882) は Urinatores と呼んだ。
Gray (1849) はやや異なり、海鳥・水鳥の大半を含む Anseres に含めた。
それらに対し、Huxley (1867) はペンギンを、他の海鳥から分離し Spheniscomorphae とした。Sclater (1880) は、独立したペンギン目 Impennes とした。Stejneger (1885) は、独立したペンギン上目 Impennes とした。Menzbier (1887) は、鳥類を4グループに分けたうちの1つ Eupodornithes をペンギンに当て、ペンギンは爬虫類の祖先の段階で他の鳥類とは分かれていたと示唆した。
Furbringer (1888); Gadow (1893); Pycraft (1898); Boas (1933) などは、(現在知られているとおり)ペンギンはミズナギドリ目に最も近いとした。それ以降は、ペンギンは目をなし、ミズナギドリ目に近縁だとする説が主流となった。ただし、独立したグループを形成するという説も後々まで残った。
Verheyen (1961) はペンギン目を、ミズナギドリ目・ウミスズメ目(ペリカン科・ウミスズメ科・アビ科)と共に Hygrornithes 上目に分類した[9]。
Bock (1982) はペンギン目を、新顎上目・古顎上目に並ぶ第3の上目であるペンギン上目 Impennes に分類した。
Sibley & Ahlquist (1990) はペンギン目を廃し、現在の water birds 全体を拡大したコウノトリ目に含めた。ペンギン科はグンカンドリ科・アビ科・ミズナギドリ科(現在のミズナギドリ目)と共にミズナギドリ上科に含めた。
Clarke et al. (2003) はペンギン科とペンギン目を系統的に再定義し、ペンギン科は現生ペンギンの最も新しい共通祖先の子孫、ペンギン目はペンギンの祖先が飛翔能力を失ってからの子孫とした。
さらに彼らは、ペンギンの祖先が他の現生鳥類から枝分かれして以降の子孫として Pansphenisciformes も定義した。ただし、化石が発見されている最古のペンギンもすでに飛翔能力を失っており、Pansphenisciformes とペンギン目は現状では同じである。
ペンギン科(Clarke et al. の意味での)に含まれる化石属は発見されておらず、ペンギン科には現生属のみが含まれる[10]。ただし、フンボルトペンギン属 Spheniscus の化石種2種 S. megaramphus と S. urbinai がペンギン科に含まれる。
ペンギンの絶滅属については、以下の系統が求まっている[10][11](属分類と矛盾する部分は簡略化している)。ただし遺伝子による系統に比べれば分岐は不確実である。
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Simpson (1946) は化石ペンギンを4亜科、現生ペンギンをペンギン亜科 Spheniscinae、計5亜科に分類していた。
その後 Marples (1952) はアンスロポルニス亜科をパレユーディプテス亜科に統合した。しかし系統解析では、Simpson や Marples の枠組みは否定されている。
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編集者の方へ:この段落は乱雑であり、内容整理が必要です。 |
ペンギンの西洋世界での認知は、温帯産ペンギンについては大航海時代に始まる。亜南極産は18世紀以降、南極産は19世紀以降のようである。日本では江戸時代後期に蘭書で知られたが、その認知は一部の蘭学者にとどまった。一般への認知は明治後期の日本人の南極探検にはじまる。
過去、脂肪から摂れる油や、肉を採取するためにペンギンを捕獲していた時代があった。20世紀には捕獲も限られたものとなり、現在では資源目的の捕獲対象とはなっていない。
ゴミの投棄や船の事故による石油流出など、様々な海洋汚染がペンギンの脅威となっている。特に喜望峰周辺海域やパタゴニアなど、重要な航路に面した海域や油田地帯に接した海域にこの傾向が強い。
さらに近年の生息域の温暖化により、餌のオキアミの繁殖域となる海上の氷の激減、洪水による巣の浸水などで、生息数が減っている種もある。
特に日本は、かつて捕鯨船団が各種ペンギンを捕獲して連れ帰り、元来より漁業が盛んであるため餌となる魚類が容易に手に入るので飼育し易く、現在でも静岡県や高知県の漁港近辺では、私的なペットとして飼われている例、野生化した例が見られる。
動物園・水族館での繁殖技術が進んだこともあり、現在世界で飼われているペンギンの1/4が日本にいると言われる程になっている。日中国交正常化に際しジャイアントパンダが中国より送られてきた返礼として、ニホンカモシカとともにケープペンギンが日本から中国に送られた。これは前述のように、日本では当時既にペンギンの飼育体系が確立していたが、当時の中国は飼育事例がなかったためである。
南極・亜南極のペンギンの飼育には低温にする設備が必要だが、フンボルトペンギン・マゼランペンギン・ケープペンギンなどの温帯ペンギンは、氷雪を好まず屋外飼育が可能であり、イギリスのエジンバラ動物園、日本でも掛川花鳥園などで冬季はストーブにあたる風景が見られる。日本では1989年に設立された葛西臨海水族園のペンギンの飼育施設がフンボルトペンギンの生息地の岩山を再現したものであり、以後の温帯ペンギンの飼育施設はそれを踏襲しているが、それまでは戦前の阪神パークで確立された南極の氷山をモチーフにした白塗りのコンクリートの小山をバックとすることが多かった。
南半球(特に温帯・寒帯)に住む動物であるペンギンについて、北半球のヨーロッパや東アジアでは近世以前には知られていなかった。日本の場合、幕末期に蘭書で知られたが、蘭学者の一部しか知り得なかった。そのため、ペンギンについて、ニワトリ・ハトのような家禽や、ツバメ・カラス・スズメなど身近な野鳥、あるいはハクチョウのような気高い野鳥のような俗信などはなく、紋章などにも用いられなかった。
北半球でのペンギン文化は20世紀以降のもので、前述の動物園・水族館飼育や、後述するキャラクターによって作られたところが大きい。
ペンギン型キャラクターは、古くは、背が黒色、腹が白色であることから、タキシードまたは燕尾服を着用した紳士になぞらえられることが多かった。特に日本では、時代の経緯とともに愛らしさが強調され、後には様々なキャラクターの発露がみられるようになった[要出典]。
また、これらのペンギン型キャラクターは、アデリーペンギンとコウテイペンギンがモデルになることが多い[要出典]。色は白黒の場合と青白の場合がある[要出典]。後者の配色は二色刷りの印刷物でペンギンの背の黒を青で印刷したことに始まり、後年フルカラーの映像・印刷になっても愛らしさ・さわやかさの表現として青で表している。
有機化合物ペンギノンは、平面構造式がペンギンに似ていることから名づけられた。
「動物の同性愛」も参照
2006年にアメリカで同性愛ペンギンの絵本 And Tango Makes Three が出版され、波紋を呼んだ。アメリカのニューヨーク市セントラルパーク動物園に実在した、オス同士のペンギンのカップルを題材にしている。
ペンギンに同性愛行動は存在する。2006年、ノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界初の「生物の同性愛」がテーマの展示会が催され、同性愛自体が自然界でも珍しいことではないという事実が研究で確認されている。同性同士のペアのペンギンは、ドイツの動物園や日本の登別マリンパークニクスなどで存在が確認できる。
2008年、イギリスの放送局であるBBCはエイプリルフールの話題にペンギンを用いた映像を制作発表。その映像[12]で愛らしいペンギンが空を飛ぶ様子をCGなどIT技術を援用して巧みに創り出した。
ラテン語の pinguis(肥満)によるという仮説。15世紀後半以降、大西洋を横断したスペインのタラ漁師が、北西大西洋のニューファンドランド島周辺に生息する飛べない潜水性の海鳥であるオオウミガラスをスペイン語で penguigo(太っちょ)と呼んだ。16世紀にこの語が英語に入って penguin となったとする。
時を同じくして、南半球を探検しペンギンを初めて見たヨーロッパ人は、オオウミガラスに良く似た形態・生態のこれらの海鳥を同じ「ペンギン」の名でよんだという。これらは特に区別せず「ペンギン」と総称され、混同されることも多かった。
古代ウェールズ語の pen-guyn(白い頭)に由来し、オオウミガラス(頭部が白い)を指す語として12世紀ごろから使われていたという仮説。しかし、一次史料は現存せず、疑問視されることもある。
語源的には「ペンギン」はオオウミガラスに由来した。しかし、オオウミガラスのみを指す時代が長く続いたわけではなく、オオウミガラスと(南の)ペンギンが「ペンギン」と呼ばれるようになったのはほとんど同時期である。
南半球の探検が進み、南のペンギンの研究・利用が増える一方、オオウミガラスは乱獲により17世紀ごろから激減し、18世紀には猟が商業的に成り立たなくなり、1844年には絶滅した。これにともない、「ペンギン」は南のペンギンを指すことが徐々に多くなり、ついには完全に南のペンギンのみを指すようになった。
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ガラバゴス諸島
座標: 南緯0度40分0秒 西経90度33分0秒 / 南緯0.66667度 西経90.55000度 / -0.66667; -90.55000
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![]() ガラパゴス諸島の衛星写真
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英名 | Galapagos Islands | ||
仏名 | Iles Galapagos | ||
面積 | 7,665.14km² | ||
登録区分 | 自然遺産 | ||
登録基準 | (7),(8),(9),(10) | ||
登録年 | 1978年 | ||
拡張年 | 2001年 | ||
IUCN分類 | II | ||
備考 | 危機遺産登録(2007年-2010年) | ||
公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
地図 | |||
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使用方法・表示 |
ガラパゴス諸島(ガラパゴスしょとう、スペイン語: Islas Galápagos)は、東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島。Islas Galápagos は「ゾウガメの島」という意味で、ガラパゴス諸島の名は、ゾウガメの甲羅が馬の鞍に似ていることからスペイン語で馬の鞍を意味する galápago からきている。正式名称はコロン諸島(スペイン語: Archipiélago de Colón)で「コロンブスの群島」を意味する[1]。行政面ではガラパゴス県にある。約2万3000人が居住し、主要言語はスペイン語。
エクアドル本土より西約900キロメートルにあり、大小多くの島と岩礁からなる。現在、ガラパゴスの123の島に名前が付いている。最も北のダーウィン島(英語版)と南のエスパニョラ島の間は220キロメートル離れている。最大のイサベラ島は面積4,588平方キロメートル、島内のウォルフ火山は海抜1,707メートルである[2]。
500-1000万年前の火山活動(ホットスポットの活動)で出来た諸島で、現在も火山活動が続いており[3]、2009年4月にフェルナンディナ島で噴火した。
ガラパゴス諸島の島々は、現在のフェルナンディナ島に位置するホットスポット (Galápagos hotspot) の火山活動によって代々形成されたと考えられている。ガラパゴス諸島一帯に位置するプレートの1つであるナスカプレートが年間数センチメートルずつ南東へ移動しているため[4]、形成された島々も南東に移動している。南東側から西に向かって順に新しい島になっており、現存する島ではエスパニョラ島が最も古く、今から300-500万年ほど前に誕生したとされている。西側の島ほど噴火活動が活発で、東に行くほど火山活動は小さい。古い島は島を構成する岩石が古く侵食が進んでおり、そのうち海に沈むと考えられている。
19の主な島と小さな島や岩礁からなる。
他
など
この島々が人間に発見されたのは1535年であるとされる。スペイン人の司教フレイ・トマス・デ・ベルランガ(英語版)が、同国による侵略により得たインカ帝国内の領地へ伝道師として向かう航海の途中、偶然に発見した。ただしハイエルダールなどはそれ以前にインカ人などが訪れていたと論じ、実際に壺にあたる土器なども発掘している[5]。しかし少なくとも永続的に定住はしていなかったようで、上記発見の時には無人島であった[6]。
その後ガラパゴス諸島は、スペイン船の金などの積載物を狙う海賊の隠れ家として利用され、海賊の中には地図を作ったり、島を命名した者もいた。海賊は食料のヤギを島に放した。
大航海時代には捕鯨船によるゾウガメの捕食やヤギの繁殖が起こり、1832年にエクアドルが領有を宣言すると、次々と入植されていった。
やがて航空路や横断道路が建設されると欧米を中心に観光客が訪れるようになり、環境破壊も深刻になった。今ではダーウィン研究所や国立公園管理事務所の設置、世界遺産への登録、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの厳重な自然保護対策を講じている。観光客は、足元を洗ってからでないと上陸させないほどの保護体制を取っているが、未だ存在する入植されたヤギや、近年のエルニーニョ現象など問題もある。
ガラパゴス諸島はいわゆる海洋島であり、大陸と陸続きになった歴史を持たない。そのような島では、在来の生物は飛来したか海を渡って漂着したものの子孫に限られる。また、多くの固有種が見られることが多い。ここの場合もそれが顕著で、大部分の生物は南アメリカ大陸に出自があるとされるが、非常に多くの固有種がある。またほ乳類と両生類を欠くなど、生物相にははっきりしたゆがみがあり、その代わりに生存する種群には適応放散が著しい。特にゾウガメがこの島の名の由来になったように、大型のは虫類が地上の動物相で大きな役割を果たしているのが目を引く。
また、このような経過から、特異な生物相を持つ島嶼のことを「○○のガラパゴス」と呼ぶことがある。日本では琉球列島や小笠原諸島がそう呼ばれるが、琉球列島はかつて大陸や日本列島と陸続きで、そこから侵入した生物相が元になっている点、海洋島へ漂着した生物を起源とするガラパゴスのそれとは性格が異なる。したがって、その意味では小笠原をこう呼ぶ方が理にかなっていると言える。
最近の調査ではウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの共存関係が崩れだし、ウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの交尾によって生まれた子供は、両方の遺伝子を持ち、ガラパゴスリクイグアナにはない鋭い爪が生えている。これをハイブリッドイグアナと呼ぶが、繁殖力はない。また前記にあるエルニーニョ現象の影響で、体長が25%も短いイグアナが発見され問題視されている。
各大陸とは隔絶された独自の進化を遂げた固有種が多く存在する。天敵になるような大型の陸棲哺乳類が存在しない。
その他の鳥類はガラパゴス諸島の野鳥一覧を参照。
チャールズ・ダーウィンが測量船ビーグル号に乗船し進化論の着想を得ることになった航海で訪れたことは有名である。ダーウィンは航海の後半、1835年9月15日から10月20日まで滞在した。その間ビーグル号は初めて諸島の地理調査を精密に行った。当時の記録は、彼の『ビーグル号航海記』で読むことができる。英名チャタム、チャールズ、オーグマール、ジェームズなどの島々で観察した動物相は、南米での調査の経験とともに、進化論のヒントとなった。航海でもっとも印象に残ったことの一つとして、ガラパゴス諸島の動植物が南米のものによく似ていることを挙げている。そして諸島滞在時には気づいていなかったが、イギリスに帰国後、生物の種とは当時信じられていたように不変な物ではなく、変化しうるのではないかと考えるようになった。島には彼を記念した研究所「チャールズ・ダーウィン研究所」が1964年に開設され、現在でも、野生生物の保護・調査に当たっている。
1978年に世界遺産(自然遺産)として登録された。2001年には、ガラパゴス海洋保護区も含めた登録となった[9]。
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準[1]からの翻訳、引用である)。
1990年代以降の急速な観光地化、それにともなう人口の急増により、直接的な環境汚染や撹乱、外来生物の繁殖、横行する密漁など多くの問題が持ち上がっている。これらに対して有効な対策を講じられていないと判断され、2007年6月、危機遺産リストに登録された。
しかし、その後のエクアドル当局の取り組みが評価され、2010年の第34回世界遺産委員会で危機遺産リストから除去された[10]。
ガラパゴス諸島の中のフロレアナ島(英語版)のポスト・オフィス湾には、無人の郵便局が存在する。郵便局とは名ばかりで木製のポストが置いてある簡素な郵便局であり、手紙を回収にくる郵便局員もいない。海賊船の時代が終わり捕鯨船の時代に入った18世紀末ごろ設置されたとされ[11]、船乗り達がこのビーチに樽を置いて郵便を投函しておくと、立ち寄った別の船が自国宛ての郵便があれば持ち帰って届けてくれた習慣に湾の名前は由来している[12]。今でも観光客が真似てこの郵便局に手紙を残し、残した数だけ自国宛ての手紙を探して持ち帰り、帰国した際に切手を貼って送る慣習になっている。
エクアドルの世界遺産 World Heritage Sites in Ecuador | |
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1/25 朝日新聞 e6
堆積層の平野 東京 名古屋 大阪
堆積平野(たいせきへいや、英: depositional plain)とは、主に河川などの流体の堆積作用によって生じた平野のことである。河川の他に海、湖、風、氷河に運ばれた土砂など、風によって運ばれた火山灰、砂塵などの堆積物からなる。
堆積平野の地形の特徴として、起伏は侵食よって形成された準平原よりなだらかになるが、河川による場合は氾濫原に限定されるために面積は比較的小さくなる。地表に見られる堆積平野は第四紀完新世に形成されたものがほとんどで、沖積平野と呼ばれる。
堆積平野が地殻変動の影響で隆起すると再び強い浸食作用を受けて段丘や台地を形成する。洪積世に起源のあるものを特に洪積台地と呼ぶことがあるが規模は小さく、やがてさらに浸食を受けて消失する。
日本においては一部に河岸段丘や海岸段丘、海進により形成された台地面が見られるが平野と呼べるほどの規模はなく、すべて堆積平野である。これは日本付近の地殻変動が激しいことを裏付ける。日本の平野は基盤岩の沈降ブロック地域に形成されている。比較的大きな関東平野、濃尾平野などでは堆積物の厚さは数km以上に及ぶ。
世界的に大きな堆積平野としては、インド、パキスタン、バングラデシュにまたがるヒンドスタン平原がある。
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自宅には、腹筋台 自転車 など健康機器が
結局は
お風呂後 お布団の上で 寝る前のストレッチ
3年前からは、「湯たんぽ」・・・
「やけど」にならないように
参考にします
投稿情報: 14時56分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
平成26年1月25日(土) 朝日新聞 b4
放射性廃棄物(ほうしゃせいはいきぶつ)とは、放射性物質を含む廃棄物の総称。これらは主に、原子力発電所および核燃料製造施設、核兵器関連施設などの、核関連施設または放射性同位体 (RI) を使用する実験施設や病院の検査部門から出るガンマ線源の廃棄等で排出される。
日本において放射性廃棄物の扱いは原子力基本法に規定されている。環境基本法等の環境法令において放射性物質は規制目的から除かれており、廃棄物処理法(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)に該当する産業廃棄物ではない。最終処分事業は原子力発電環境整備機構 (NUMO) が担っている。
原子力発電所から出る放射性廃棄物の場合、原子炉で燃焼した燃料棒(使用済燃料)や、作業員が使用した衣服(→放射線防護服)やこれの除染に用いた水など多岐に渡る。使用済燃料は一時保管した後、再処理工場に運ばれる。再処理工場からは、燃料棒の部品(ハル・エンドピース)、また燃料棒のペレットに含まれる核分裂反応による生成物(核分裂生成物)や、湿式によるウラン・プルトニウムの分離抽出の過程で発生した廃液などの放射性廃棄物が発生する。さらに運用終了した原子力発電所の解体時には、放射化により放射能を持った原子炉そのものが放射性廃棄物となってしまう。
軍事分野では、同様の廃棄物として、核兵器製造過程で生じた廃棄物や、耐用年数を過ぎ廃棄処分となった核兵器、耐用年数を過ぎ廃艦処分となった原子力潜水艦や原子力空母などがある。
原子力施設や核兵器関連施設以外にも、原子力の研究施設や大学、医療分野や民間産業分野、農業分野などでも放射性物質を使用する場合があるので、放射性廃棄物は発生する。
3%濃縮ウラン燃料 1t が燃える前の組成はウラン238が 970kg、ウラン235が 30kg であるが、燃焼後は、ウラン238が 950kg、ウラン235が 10kg、プルトニウム 10kg、生成物 30kg となる。
詳細は「再処理工場」を参照
核燃料は、燃焼するとともに核分裂性のウラン235やプルトニウムが減少して中性子発生数と発熱量が低下し、中性子を吸収してしまう核毒となる核分裂生成物 (FP) が増加して、核分裂の燃えやすさ(余剰反応度)が低下する。
再処理では、使用済核燃料から核分裂性のウラン235やプルトニウム、マイナーアクチノイド (MA) を抽出し、非核分裂性ウラン238に3-5%程度混ぜ、中性子を吸収する核毒のない新しい燃料を製造する。非核分裂性ウラン238は反応を穏やかにしてコストを下げ、中性子の作用で新たな燃料を発生させるために用いられる。燃えないウラン238が炉内中性子照射で燃えるウラン235やプルトニウムに変わり核燃料として利用できるようになる。核毒部分は高レベル放射性廃棄物 (HLW) として排出される。
使用済み燃料を再処理しないでそのまま/ガラス固化し、地中のコンクリート構造物で保管する方法をワンススルーと呼ぶ。 再処理コストがかからないので 0.7円弱/kwh コストが安い。米国はコスト追求と、他国に再処理をやめるように勧告するためにワンススルー政策をとる。この方法で処分される放射性廃棄物は放射能の低いウラン238が大部分を占めるために、再処理で濃縮された高レベル廃棄物よりは初期の質量あたりの放射能は小さい。ただし半減期数万年の MA やウランやプルトニウムが混じっているので半減期は長い。
再処理してウラン235とウラン238とプルトニウムを取ったあとの高レベル放射性廃棄物をガラス固化して地上管理施設で冷却・保管し(30年-50年)、その後地層処分して数万年以上に渡り隔離・保管する方法で、日本はこの方針である。1t の使用済み核燃料から、高レベル放射性廃棄物は最終的に (30~50)kg+α まで減らせるが[要出典]、大量の低レベル放射性廃棄物が出てしまう。また、高レベル放射性廃棄物はガラス固化するものの、半減期数万年の MA と高発熱量 FP が混入しているため、冷却しながら30年、その後数万年の保管が必要になる。
再処理で出てきた高レベル放射性廃棄物 (HLW) を更に群分離して、超長半減期の MA(アメリシウムなど)と長半減期核分裂生成物 LLFP(ヨウ素など)を、高速炉や加速器駆動未臨界炉で中性子照射して核分裂させ、すべて短半減期の同位体に核種変換(消滅処理)する。さらに群分離により、高発熱量核分裂生成物(ストロンチウム・セシウム)を分離して熱利用・放射線利用に振り向け、有用高価な白金族やレアメタルを回収する。残った残渣の「低発熱・短半減期核分裂生成物」だけをガラス固化して 100-500年保管し、天然ウラン並みに放射線が低下した時点で再利用または廃棄する。
工程は複雑になるが、数万年も監視する必要はなくなり、100-500年の監視で天然ウラン並みに放射線が低下して廃棄/資源利用が可能になる。FP から熱を蒸気発生用に回収でき、低温になったガラス固化体は稠密に保管でき貯蔵スペースを大幅に節減できるとして日本でオメガ計画として技術開発が進められている。
放射性廃棄物は、放射能濃度により、高レベル放射性廃棄物と低レベル放射性廃棄物に分類することができる。また、発生別により、再処理工場から発生する使用済燃料の被覆管の切断片、ヨウ素を閉じ込めるための廃銀吸着剤、二次廃棄物(MOX燃料施設から発生するものも含む)等の内、超ウラン元素 (TRans-Uranium) を含む廃棄物はTRU廃棄物と呼ばれる。ウラン燃料を加工する施設から発生するウランで汚染された廃棄物は特にウラン廃棄物と呼ばれる。
放射性廃棄物を含め、放射性物質はある程度の時間(半減期)が経過すると放射能が弱くなり、やがては大部分が安定した物質に変化する性質を持つ。半減期と単位時間当たりの放射線量は反比例し、半減期の長い物質は単位時間当たりの放射線量は少ない。半減期は放射性核種により異なる。
過去には、放射性廃棄物の処分に関しては深地層注入や海洋投棄も実施され、宇宙空間に投棄する方法(宇宙処分)や氷床中への埋設なども検討されたが、21世紀初頭においては地中埋設処分が各国で採用されている。詳細は次節の「放射性廃棄物の処分方法」を参照。
一般的には、高レベル放射性廃棄物は使用済み燃料であり、日本では使用済み核燃料を再処理した際の廃液およびそれを固化したガラス固化体のことを指す。核分裂生成物 (FP) と超ウラン核種 (TRU/MA) が主なもので、前者は強い放射線を放ち、後者は長期間放射線を放出する。
これらの廃棄物は、半減期の長い長寿命核種(特に、マイナーアクチニド (MA) のネプツニウム、アメリシウム、キュリウムには、半減期が数万年に及ぶものもある)が含まれており、時間経過による減衰は考慮できないため、短寿命で放射線量の多い放射性物質の減衰を目的として、一定期間の管理を行ったうえで、人間界から隔絶するために地下深くに埋設して処分する地層処分が、主に関係する諸国で検討されている。
ドイツでは既に地下の岩塩層や廃鉱跡地に埋設処理することで具体的な対策を検討中である。 フィンランド、ユーラヨキのオルキルオト島(フィンランド語版)のOnkalo廃棄物貯蔵施設が2020年から100年間稼働予定で建設中である[1][2]。原子力発電施設を持つ各国では建設地の設定が急がれている。
また、核分裂生成物の30年減衰保管管理はコストがかかり、半減期の長い長寿命核種を数億年も管理はできないので、高速増殖炉/加速器駆動未臨界炉で中性子を当てて核分裂させ半減期の短い物質に変えて燃やしてしまう処理方法も研究されている。
特に加速器駆動未臨界炉の場合、例えば80万kwの加速器駆動未臨界炉ではMAを60%以上含む燃料を装荷して、軽水炉10基分のMAを纏めて焼いて短半減期に変えてしまう事ができるため、有望視されて研究が急速に進んでいる。これを核種変換(消滅処理)という。
以上の如く放射性廃棄物の最終的な処分対策・技術は必ずしも確立しているとは言えない状況であり、これは時として「トイレ無きマンション」などと表現される。だがこれに対しては、技術蓄積の無い計画初期の段階で最終処分技術まで確立すると言った事は非現実的であり、運用で技術を蓄積した末に最終処分技術が確立するのがむしろ当然であるとの反論もある[3]。
低レベル放射性廃棄物は、高レベル放射性廃棄物に比べ比較的低い放射能を持つ廃棄物である。放射線管理区域などで中性子を吸収して放射性物質になったものや、放射性物質が付着したもの、炉心付近の資材などがこれに当たる。低レベル放射性廃棄物のうち、人体に影響を与えるレベルのものは、浅地中処分、コンクリートピット処分、余裕深度処分等の濃度に応じた埋設処分が行われ、一定期間地中に閉じこめておくことで、生活圏への影響をなくすこととしている。
「TRU廃棄物」も参照
超ウラン元素を含むTRU廃棄物は、前述の高レベル放射性廃棄物と異なり、化学形態、放射能濃度も様々である。これらについては、現在、原子炉等規制法及びその施行令により、核種毎の放射能濃度により、第1種放射性廃棄物(炭素14が10PBq/t以上、塩素36が10TBq/t以上、テクネチウム99が100TBq/t以上、ヨウ素129が1TBq/t以上、α線放出核種が100GBq/t以上のうちのいずれかの条件を満たすもの)、第2種放射性廃棄物(炭素14が87TBq/t以上、塩素36が96GBq/t以上、Tc99が1.1TBq/t以上、ヨウ素129が6.7GBq/t以上、α線放出核種が8.3GBq/t以上のうちのいずれかの条件を満たすもの)、それ以外に分類され、分類に応じた処分がなされることとされている。
TRU廃棄物は超長寿命核種 (MA) を大量に含むため上述のように加速器駆動未臨界炉で焼いて、短半減期にして、ストロンチウムなど高発熱核分裂生成物を分離して、低発熱・短半減期のものを保管して、天然ウラン以下の放射線になったところで廃棄する方策が検討されている。
放射性のある廃棄物のなかで放射能がクリアランスレベル(しきい値)以下のものは、法定上は放射性廃棄物とはみなされず産業廃棄物として処理される。
原子力安全委員会は1997年からクリアランスレベルの検討を始め、2009年に放射性廃棄物の放射能のクリアランスレベルを1Bq/gm (1000Bq/Kg) と決定した。 これは放射性廃棄物の再利用や非遮蔽廃棄による公衆への影響が、上限0.01 mSv (10 μSv)/年、もしくは低確率の被曝の場合は1 mSv/年、皮膚の外部被曝のみの場合は50 mSv/年を基準として放射能を算出したものである[4]。
ウラン取扱施設のおけるクリアランスレベル以下の廃棄物は、平成62年度末(2051年3月末)には約10万トン、その内7.9万トンは金属と想定されている。(福島原発事故による廃棄物は含まれていない)これらの金属の発生源はウラン濃縮工程の遠心分離機や燃料加工施設の焙焼・還元装置、成形加工装置、焼結装置、研削機械などである。金属の再利用の際の溶融では、放射性核種の内超ウラン元素は99.4~99.8%がスラグへ濃縮されると報告されている。例外はMn54、Fe55、Co60、Ni63、Zn65[5]、Nb94等でこれらの同位元素は大半がインゴットに残留する[6]。
原子力発電の核燃料サイクルにおいては、様々な放射性廃棄物が各工程で発生する。その内比較的低レベルの放射性廃棄物の一部は処分に付されているが、大半は最終処分待ちの状態で各原発、核燃料施設、研究施設などで保管されている。以下は2007年時点での日本における放射性廃棄物の在庫である[7]。
なお、以下の数値に関しては誤報が頻発している状況なので、随時確認・更新が必要である[8]。
資源エネルギー庁による集計値 平成19年度 (2007)
L1 使用済み核燃料 14,870トン
L2 放射性廃棄物の貯蔵量
L2.2 発電所廃棄物
L2.3 長半減期低発熱放射性廃棄物
L2.4 ウラン廃棄物
L2.5 研究施設等での廃棄物
L2.5.2 廃棄業者が保管している廃棄物
放射性廃棄物の処分については様々な方法が検討された。海洋投棄(かつて各国で実施されたが1993年に全面禁止)、地上施設による長期保管(未実施、ただし一時的な中間貯蔵施設は除く)、氷床処分(禁止)、宇宙処分(大気圏外にロケットで打ち上げ太陽系の引力圏外に放出する、もしくは太陽の重力に引き寄せさせる方法。かつて米が検討したがコストと不確実性から不採用)、地中直接注入(米、ソが実施)などが検討され、このうち海洋投棄と地中直接注入処分は実施された[9]。
地中直接注入 (Direct injection) とは、液体もしくは粉体を混ぜた流体の放射性廃棄物を、処分に適した地中に高圧で注入する処分方法である。1957年にソ連が調査を開始し、深度400mと1400m砂岩層、石灰岩層へ40年に渡り数千万立方メートルの低レベルから高レベル放射性廃棄物を注入処分した。アメリカでも、1970年代に10年間に渡りテネシー州のオークリッジ国立研究所の地下300mに7500立方メートルの低レベル放射性廃棄物が注入処分したが、環境汚染への懸念から中止した。高レベル放射性廃棄物の処分も検討されたが、これも汚染への懸念から計画は断念された[9]。
詳細は「海洋投入#放射性廃棄物の海洋投棄」を参照
核開発の初期においては各国で廃炉になった原子炉、使用済み核燃料等の高レベル放射性廃棄物を含めた固体・液体の放射性廃棄物が海洋投棄された。海洋投棄は1946年のアメリカによる北東太平洋への投棄に始まり、1975年には高レベル放射性廃棄物の海洋投棄が禁止され、1993年に全面禁止となる迄に日本(1955~69年の間に実施)を含む13ヶ国による海洋投棄が報告されている。海洋投棄は太平洋北東部、大西洋北西部と北東部、北極海、太平洋北西部で行われ、それらの放射能の総量は8.5x1016ベクレル (Bq) と推定されている[10]。
海洋投棄については環境汚染の懸念からロンドン条約が締結され各国が批准している。同条約は75年の改定で高レベル放射性廃棄物の海洋投棄禁止、1993年には全て放射性廃棄物の海洋投棄が禁止となった。
1993年には、ロシアによる日本海への放射性廃棄物投棄が明らかになり、国際世論の批判を招いた[13][14]。
なお、バーゼル条約により、締結国は有害な廃棄物の輸出・入は厳しく制限され、政府開発援助と抱き合わせで発展途上国に引き取らせるなどの方法は禁止されている[15]。環境上適正な処分について可能な限り国内の処分施設の確保が求められている。
放射性廃棄物の最終処分に関しては「高レベル放射性廃棄物」は深地層への「地層処分」が計画されている。「低レベル放射性廃棄物」ではそれらの物性により三段階の「浅地中処分」およびTRU廃棄物などは「地層処分」される[16]。
「地層処分」と「浅地中処分(トレンチ処分を除く)」はいずれも遮断型処分ではあるが、人工構造物(人工バリア)による完全な放射能の遮断を管理期間中継続させることは困難である。放射能の漏洩による影響を最小限にするために場所(地質・地層、水脈など)および地中深度などが考慮され処分基準となっている。「浅地中トレンチ処分」は遮断手順を伴わない処分であるが、処分場の管理は埋め立て後50年間継続される。
また原子力発電所などで発生する廃棄物の内、放射能がクリアランスレベル以下の物は放射性廃棄物とはみなされず、一般の産業廃棄物として再利用・処分される。
日本においては使用済み核燃料は再処理の方針により廃棄物には分類されないが、再処理の方針をとらない国では高レベル放射性廃棄物に区分される。
「低レベル放射性廃棄物」の「浅地中処分」には「余裕深度処分」「浅地中ピット処分」「浅地中トレンチ処分」の三段階の処分方法がある。
一部のTRU廃棄物を除く低レベル放射性廃棄物はそれらの放射能レベルに応じて三段階の「浅地中処分」される[17]。
「最終処分場#処分場の区分と構造」も参照
廃棄物の種類 | 廃棄物の例 | 発生源 | 処分方法 | |
---|---|---|---|---|
高レベル放射性廃棄物 | ガラス固化体 | 再処理施設 | 地層処分 | |
低レベル 放射性 廃棄物 | 高レベルの物 | 制御棒、炉内構造物、 放射化金属 | 原子力発電所 | 余裕深度処分 |
低レベルの物 | 廃液、フィルター、廃器材、 消耗品等を固形化 | 浅地中ピット処分 | ||
レベルの極めて低い物 | コンクリート、金属等 | 浅地中トレンチ処分 | ||
超ウラン核種を含む廃棄物 (TRU廃棄物) | 燃料棒の部品、 廃液などプロセス廃棄物、 フィルター | 再処理施設 MOX燃料加工施設 | 特性に応じトレンチ処分以外の3段階 | |
ウラン廃棄物 | 消耗品、スラッジ、廃器材 | ウラン濃縮 燃料加工施設 | 特性に応じ全4段階の処理 | |
研究所廃棄物 | 大学・企業等 研究機関 | |||
放射性同位体(RI) 廃棄物 | 医療機関等 |
処分方法 | 廃棄物の例 | 封入容器 | 人工構造物 | 深度 | 管理期間 |
---|---|---|---|---|---|
地層処分 | 高レベル放射性廃棄物 およびTRU廃棄物 | ガラス固化体キャニスター | 多重人工バリア 鉄筋コンクリート構造物 | 300m以深 | 数万年以上 |
余裕深度処分 | 制御棒、炉内構造物 放射化金属および加工・再処理における プロセス廃棄物等 | 200リットルドラム缶等 | 鉄筋コンクリート構造物 | 50~100m | 数百年、 管理内容未定 |
浅地中ピット処分 | 廃液、フィルター 廃器材、消耗品等 | セメント等で固化した廃棄物を入れた 200リットルドラム缶等 | 鉄筋コンクリート構造物 | 十数m | 約300年 |
浅地中トレンチ処分 | コンクリート、金属等 | 廃棄物のまま | 人工構造物無し | 約50年 |
日本では、地震や火山噴火等に耐える強固な施設でなくてはならず、地下水にも汚染がないよう地下300mの箇所に多重バリアを引いて処理する手法が提示されているが、場所の選定からして大変であり、候補地の目途すら立たない状況にある。地層処分#施設検討・応募状況も参照。
岐阜県瑞浪市のJAEA瑞浪超深地層研究所では2007年11月現在、将来の高レベル放射性廃棄物の処分地を決める上で必要となる技術を研究するために、地下深く縦穴を掘っている。2本の1,000mの穴を掘り、100m毎に地下水の動きや地震の影響を記録する装置を設置する予定である[19]。北海道幌延町でも同様の施設であるJAEAの建設が進んでいる[20]。
地層処分施設およびその周辺の管理期間に関して原子力委員会は1998年(平成10年)の報告の中で、広大な国土(人口密度は北海道の1/20[21])にウラン鉱脈を持つカナダではガラス固化体は「一万年後にはウラン鉱と同レベルの放射能になる」、「地中のウラン鉱脈が地表に影響を与えていない」等から、当時は一万年を管理期間としていたことから日本もそれに習い一万年を管理期間とするよう勧告していた[22]。
アメリカ合衆国でもネバダ州(人口密度は北海道の1/7[21])のユッカマウンテンに計画されていた地層処分施設の管理期間を当初一万年としていたが、2009年には管理期間を百万年に変更した。ヨーロッパ各国では地層処分施設の管理期間を十万年としている。
ガラス固化体一本(直径約40cm、高さ約130cm)の放射能は約4x1015ベクレルで、1万年後に1/2000の約2x1012ベクレル、10万年後に1/6000の約7x1011ベクレル、100万年後に1万分の1の約3.5x1011ベクレル[23]。(注意:記述の放射能の減衰の数値は原典のグラフを目測したもので正確な数値ではない。)
高レベル放射性廃棄物は1996年3月時点でガラス固化体に換算して1万2千本相当が溜まっており、2030年には7万本相当になると試算されており地層処分施設では5.6~7km2の用地を必要と見積もられている[22]。
2009年時点ではガラス固化体1692本と処理待ちの380立方メートルの高レベル放射性廃液の在庫があった。
ガラス固化後の高レベル放射性廃棄物がウラン鉱石と同じ放射能レベルになるには長期間かかる。長寿命核種の分離変換(群分離・消滅処理)をすればこれが数百年以下に短縮されるが、地層処分の必要性を変えるものではないと考えられている[22][24]。
現在、放射性廃棄物からはコバルト60 (60Co)、セシウム137 (137Cs) が医療用ベータ線源及びガンマ線照射用として、テクネチウム99m (99mTc)、ヨウ素131 (131I) がシンチグラフィ及び放射線医療用に単離され用いられている。またストロンチウム90とセシウム137が高レベル廃棄物の発熱の大きな原因になっているので、これらを分離して熱源/放射線発生源として利用し、発熱の少ない核分裂生成物だけガラス固化して保管場所を節約する案も検討もされているほか、触媒用の白金族やジスプロシウムなどの高価な希少金属の回収も検討もされている。放射性廃棄物の再利用はメリットもあるが、後述の通り軍事転用の問題があり、また環境汚染リスクもある。また放射性廃棄物の再利用には限界があり、すべて利用できるわけではない。
放射性廃棄物の問題は、扱っている対象が放射能を持つ放射性物質であるという事実である。
放射性物質の中には、半減期が極めて長いものも存在する。放射性物質の量は半減期を経過すると元の半分になるが、残った放射性物質がさらに半分(つまり元の1/4)になるのにも、同じだけの期間が掛かる。たとえば、半減期が約12年であるトリチウムの場合、24年後に崩壊が終わり消失するわけではない。12年後に元の量の50%、24年後に25%、36年後に12.5%…と量が減り限りなくゼロに近づくのみで、同時にトリチウムが崩壊してできる安定同位体、ヘリウム3が生成されていく。ウラン等の原子番号の大きい物質は、崩壊後の物質も放射性物質(娘核種)になるため、含まれる全ての放射性元素が崩壊を終え、鉛などの安定同位体に落ち着くまでは、非常に長い期間を要するものもある。
劣化ウラン弾も参照
劣化ウランはウラン鉱石を精製した後の純粋ウランから、ウラン濃縮を行い核燃料としての低濃縮ウラン燃料が得た後に残る残渣の廃棄物であり、原子力発電所から発生する廃棄物とは発生経路が異なる。成分はいくつかの放射性同位体が混ざった純粋ウランである。もともと天然ウランであるので半減期が数億年〜数十億年と長く、そのため放射能は弱い。
劣化ウランは、入手可能で安全に扱える物質の内では比重が最も大きいので、空中を飛翔した後に目標物を貫通するタイプの銃砲弾の材料に適している。この高性能銃砲弾を劣化ウラン弾という。アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、中国、カナダ、スウェーデン、ギリシャ、トルコ、イスラエル、サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、エジプト、クウェート、パキスタン、タイ、台湾、韓国、などが劣化ウラン弾を兵器として保有している。
劣化ウラン弾の金属ウランは、目標命中時の変形エネルギーで微粉末化され、空中で直ちに酸素と結合して激しく燃焼して周囲に拡散するため、被害者が戦闘員だけに限定されず、付近に人や動物が居れば呼吸器から容易に吸い込まれる。わずかであるが残留している放射性同位体(234Uなど)による内部被曝を起こしているとして、国際的な社会問題になっている。重金属としての化学毒性もある。
劣化ウラン弾が生まれる以前の高性能な銃砲弾はタングステン弾が一般的であり、現在でも、欧州(イギリス・フランス・ロシア・スウェーデン・ギリシャを除く)や日本ではタングステン弾を使用している。米英露中が劣化ウラン弾を製造し使用するのは、単純に性能が高いためであると軍事専門家は述べている[25][26]。また、タングステンは資源が極端に中国に偏在しているという問題もある。 銃砲弾だけでなく戦車などの装甲車両の装甲板の内部に劣化ウランを内蔵させて、防御性能を高める場合もあり、追加装甲などに用いられている。
「民生原子力発電の使用済み核燃料から核兵器を作る」という誤解に基づく話は、一般に広く流布しているが、商用軽水炉の使用済み核燃料は燃焼度が高く核兵器を作るためには特別な処理を必要とする。この方法は原理的には可能であるが、きわめて高価で時間がかかるため、核兵器の製造方法としてはまったく現実的ではない。他方、黒鉛炉で短期間使用した核燃料からは比較的容易に核兵器を作れる。プルトニウムにはさまざまな同位体(質量数 238、239、240、241、242、244)があり、このうち使用済み核燃料では 239Puと240Pu が主体で 241Pu と 242Pu も少し生まれる。241Pu と 242Pu はともに核兵器の爆発には影響しない。241Pu は半減期14.4年で 241Am へ崩壊するため比較的早期に減少し、Am が発熱するのであまり多く含むと完成した核兵器に放熱が必要になってしまう。242Pu は体積をとるだけである。核兵器を製造するために必要なプルトニウムの同位体は 239Pu であり、240Pu は核分裂を起こさずに中性子を吸収してα崩壊等をおこすため「汚染物質」とまでいわれる。核兵器製造時には 240Pu は少なければ少ないほうが良い。軽水炉の使用済み核燃料に含まれるプルトニウムには 240Pu が全プルトニウム中の20%から40%も含まれる。すなわち、軽水炉の核燃料を効率よく燃やすので、兵器の原料となる残りかすが少ない。その逆に黒鉛炉はプルトニウムをうまくもやせないので、兵器に利用できる残りかすがある。
核施設を空爆される恐れがない場合においては、ウランの濃縮作業に大量の電力を消費するより、239Pu を生産するための兵器級プルトニウム生産炉(黒鉛炉)を構築し発電しながら核兵器を作ったほうが、安価に大量の核兵器を生産できる。しかしながら、発電しながらでは高品質のプルトニウムの生産効率が今ひとつ悪いため、戦略核兵器用に短時間で大量の核弾頭を生産するには不利である。そのため、発電を放棄し兵器級プルトニウム生産に特化した黒鉛炉(パイルと呼ばれる)が使用される。ウラン原爆は経年劣化がなく取り扱いやすい優秀な兵器が作れる半面、ウラン濃縮に大変な電力と時間が必要されるため、核兵器を大量に作るには不適切である、というより非実用的である。そのため、5大国の核兵器は実験用を除くほとんどすべてがプルトニウム爆弾であり、北朝鮮も黒鉛炉で兵器級プルトニウムを生産している。しかし、一般の民生発電用の沸騰水型原子炉や加圧水型原子炉の使用済み核燃料を再処理工場で処理して取れるプルトニウムは(特別に燃料棒を早く抜き出さない限り)240Pu 含有量が高すぎる。そのため、濃縮技術で 239Pu 含有量を高め、240Pu 含有量を9%以下にするなどの特別な処理をしない限りは核爆弾を作っても不完全核爆発を起こす。そのため、爆弾はサイズだけは巨大化するが爆発力はせいぜい1キロトン止まりなので、兵器としては現実的でない。一般的な兵器用プルトニウムの生産では、パイルとよばれる専用の黒鉛炉で新しいウラン燃料を使って短期間(おそらく数か月など)燃焼させた核燃料を取り出して利用する。必要なプルトニウム 239Pu がある程度できており、反面、不要なプルトニウム 240Pu が非常に少ない。このためIAEAは商用原子炉の核燃料交換作業に非常に注意を払っている。
高速増殖炉からは、炉心の周囲のブランケット部分で、240Pu が非常に少なく、239Pu が97%以上の兵器級プルトニウムを生産できる。
テロリズムの手段として、放射性廃棄物の撒布(汚い爆弾)が考えられており、放射性廃棄物の管理を厳重に行なわれなければならない理由のひとつとされる。IAEAにより国際規制物資として監視下にある。
イタリアではマフィア型犯罪組織による核廃棄物の不法投棄が問題視されてきた[27][28]。 1980年代から確認されてきた問題で、その主犯はカラブリア地方を本拠地とするンドランゲタであるものと目され、イタリア国内を始めヨーロッパ中から持ち込んだ放射性廃棄物を、船に満載したうえで船ごと沈めるという方法でカラブリア地方の周辺海域(地中海等)を主とするイタリア国内の海中や、インド洋のソマリア沖に投棄してきたものと見られている[29]。 2004年に発生したスマトラ島沖地震はソマリアの海域に津波を発生させたが、この際ソマリアの浜に大量の核廃棄物やその他の毒性の高い化学物質を含む廃棄物やコンテナの破片が打ち上げられるという事態が起こった。不法投棄されたものであるとして国連環境計画がそれらについての報告書を作成している[30]。
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ミュージカル映画(英: Musical film)は、映画のジャンルの一つで、物語に混在して俳優が歌を歌う形式を指す。一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。
ミュージカル映画は、1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期に出現した。最初のトーキーとされるアル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』(1927) からして、音楽映画である。当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレビュー短編なども多く作られた。
しかしトーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあった。そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍した。
世界恐慌によってブロードウェイも不況に巻き込まれた1930年代前半、ダンサーのフレッド・アステアをはじめとする一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、ここで本格的なミュージカル映画の製作される土台が形作られることになった。アステアはRKO映画の女優ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、一連のヒット作でテクニカルかつロマンティックなダンスシークエンスを披露して人々の喝采を浴び、世界的な人気者となった。このアステア&ロジャースのコンビは、息のあった男女のダンサーの代名詞として現在でも使われることがある。
他にも、天才的な振付師であるバスビー・バークレイは、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使し、ミュージカル映画に舞台とは違う独自の発達をもたらした。具体的には、ダンサー達をその真上からカメラで見下ろし、その隊列で万華鏡のような映像を造り出す、いわゆるバークレー・ショットの創造がある。そうして形作られた人気を背景に、30年代末期以降のミュージカル映画はテクニカラーの導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。
この黎明期をはじめ20世紀前半のミュージカル映画のストーリーは、突然歌い踊りはじめても違和感の少ない歌手やダンサー、ミュージカルスターを登場人物にして、その舞台裏や私生活を描いたものがもっぱらであり、それらは後に舞台裏ミュージカルと呼ばれる伝統的ジャンルとなる。
1940~1950年代はスター・システムによるミュージカル映画の最盛期で、特にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社は、ジュディ・ガーランドやジーン・ケリー、前述のフレッド・アステアなど数多くの優れたミュージカル俳優の出演する、豪奢な作品群で一世を風靡した。他社も20世紀フォックスはベティ・グレイブル、パラマウント映画はビング・クロスビー、コロムビア映画はリタ・ヘイワースといった看板スターを擁したものの「星の数よりも多い」と謳われるMGMの圧倒的な質量にはかなわなかった。
『巴里のアメリカ人』と『恋の手ほどき』ではアカデミー作品賞を受賞し、芸術的にも評価が高かったMGMミュージカルは、この時代の娯楽映画の代名詞と言っても過言ではなく、他にも『踊る大紐育』『錨を上げて』『私を野球につれてって』『雨に唄えば』『バンド・ワゴン』『イースター・パレード』『オズの魔法使』『若草の頃』といった数々の名作を後世に残している。またこの時期はいわゆるティン・パン・アレーの作詞家・作曲家が最後の輝きを見せた時期でもあり、現在までスタンダード・ナンバーとして愛唱されるミュージカル映画の曲も数多い。
小規模な所では、1940年代のアメリカでサウンディーズと呼ばれるジュークボックス映画が多く作られている。レストランやナイトクラブ等に置かれたパノラムと呼ばれる専用装置にコインを投入すると、デューク・エリントンら人気ジャズマンの登場する約3分間の短篇音楽映画を楽しむ事ができた。テレビの登場により一時的な流行で終わるが、サウンディーズ向けに作られたフィルムは、当時のミュージシャンの姿を今に伝える貴重な映像資料となっている。
40年代半ばにブロードウェイで公開された『オクラホマ!』は、脚本を練ったドラマティックなストーリーでブロードウェイ・ミュージカルに革命をもたらしたが、その流れは50年代になって映画にも流れ込んだ。以後、主にロジャース&ハマースタインの作品に代表されるストーリー重視のミュージカルが主流を担うようになり、それまでの歌や踊りなど個人芸重視の舞台裏ミュージカル、スター・システムの映画は影を潜めるようになった。
このストーリー重視の新しい流れのミュージカルには、物語と音楽を高度に結びつける困難な作業とセンスが必要であるため、映画製作者達は元々完成度の高いブロードウェイ・ミュージカルに題材を求めるようになり、以後映画オリジナルのシネ・ミュージカルは製作頻度が激減することになった。
時を同じくしてシネマスコープの導入にともない映画は大型化。たださえ制作費が多額なミュージカル映画は、それに見合った収益が見込める超大作志向に活路を見出す。それが花開いたのが60年代であり、『サウンド・オブ・ミュージック』をはじめ『メリー・ポピンズ』『マイ・フェア・レディ』など現在でもスタンダードとなっている大作名画が、ハリウッド各社、あるいはフランスやイギリスなど各国からも誕生。ミュージカル映画は最大の黄金期を迎える。
また舞台の世界と同様、『ウエスト・サイド物語』以降には社会性を強く打ち出した作品が出現し、高く評価されるようになった。但しそれは同時にそれまでハリウッド・ミュージカルが標榜していた「夢の世界」を色褪せた物とさせる諸刃の剣であり、現在からすれば評価の分かれる所である。
1960年代の終り頃には、肥大化したミュージカル映画は超大作の商業的失敗が相次ぐようになり一気に退潮。台頭してきたアメリカン・ニューシネマやSFX映画に娯楽映画の主流を譲ることになり、以後30年近くにわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材と人材の発掘場であるブロードウェイの低調が大きく影響し、俳優・監督・その他スタッフに人を得られなくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。
そうしたメインストリームの退潮の一方、エルヴィス・プレスリーやビートルズなど特定の軽音楽歌手をフィーチャーした小規模なミュージカル映画が1960年代から作られ始め、サントラとの相乗効果でヒットを挙げるなどしていた。この路線が'70~80年代になって、特定歌手にこだわらず若者向けのキャッチーな曲をサントラに満載し、ポップス市場と強く結びついた映画を作る動きとなった。殊更に『アメリカン・グラフィティ』『サタデー・ナイト・フィーバー』らの大ヒットを手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後のミュージック・ビデオ時代の礎ともなり、また『ロッキー4』などミュージカル以外の映画の造り方にも影響を与えた。
1990年代に入ると『美女と野獣』をはじめとするディズニーのアニメミュージカル映画が、大人にも受け入れられて大ヒットを記録。それを嚆矢として2000年代に入った近年、実写の本格ミュージカル映画もブロードウェイのヒット作を映画化する形で復調を見せるようになった。2003年には『シカゴ』がミュージカル映画としては34年ぶりとなるアカデミー作品賞を受賞。その後、「RENT」「THE PRODUCERS」「HAIRSPRAY」「MAMMA MIA」等のブロードウェイミュージカルが次々と映画化されるようになっている。
ミュージカル映画では劇中で披露される歌は事前にスタジオで録音した曲を撮影現場で再生し、役者は口パクで演じるという方法が多いが、レ・ミゼラブル (2012年の映画)では、歌唱はすべてその場で撮影しながら録音したものである。現場ではピアノの生伴奏を役者にイヤホンで聞かせながら撮影した(ピアノの音はリズムのためであり、後にオーケストラのサウンドに変えられているものもある)[1]。
一方ボリウッドを中心として映画製作が年間800本行なわれているインドにおいては、その作品の大多数にミュージカル要素が組み込まれている。製作本数から鑑みてミュージカル映画の本場はインドであるとする見方もある程だが、ただしその作風はアクション映画など他のジャンルの要素まで雑多に詰め込んだ独特のものである。これらの映画も1990年代以降、ラジニカーント主演『ムトゥ 踊るマハラジャ』など一部の人気映画が海外進出をするようになった。
日本の最初のトーキーである『マダムと女房』も、ハリウッドのそれと同様にミュージカルの要素が強い作品である。
日本のミュージカル映画の特徴として挙げられるのが、七五調を違和感なく使える時代劇との相性の良さであり、戦前の危機的な世相の中作られた名作『鴛鴦歌合戦』をはじめ、エノケンこと榎本健一や美空ひばりといったスターの主演する時代劇ミュージカルが戦中から昭和30年代にかけてヒットを飛ばしている。『狸御殿』シリーズも戦中戦後にかけて映画会社をまたがって幾作も作られ、2005年にも最新作『オペレッタ狸御殿』が作られる、息の長いシリーズとなった。
一方時代劇以外の分野では『素晴らしき男性』『アスファルト・ガール』などハリウッドに範をとった野心的ミュージカル大作も作られてはいたものの、それらは観客の失笑を買う結果となった。フランキー堺主演の『君も出世ができる』は批評的には数少ない成功例として挙げられるが、それすら興行的には失敗する有様であった。現代劇におけるミュージカルは、もっぱらその当時の流行歌を主題とした歌謡映画として、あるいは加山雄三やクレイジー・キャッツらが主演するコメディ映画のワンシークエンスとして、といった形で観客に受け入れられていた。
現在、ブロードウェイの翻訳作品が強い舞台の世界と同様、日本の映画界においてもオリジナルのミュージカル作品が作られることは稀で、時折製作されても幼年層を対象にしていることが多く、一般層に受け入れられにくいことは否めない。
最近では「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭 2012」の短編部門において、角川裕明監督のミュージカル作品『ユメのおと』が最優秀作品賞を受賞。日本に和製ミュージカル映画を根付かせるという目的で「Japanese Musical Cinema」という団体を立ち上げている。
(舞台作品の映画化は「stage = S」で示す。括弧内は舞台の初演年度) 代表的なミュージカル映画の基準は以下のものです。
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投稿情報: 14時06分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)