世界文化遺産 大浦天主堂のどこを竹 漆喰 -竹小舞 -にしているのかな
長崎県の教会建築の起点となった国宝の教会。
幕末に諸外国からの開港圧力が強まり、幕府は1858年に英米仏露蘭と不平等な「安政の五ケ国通商条約」を結び、長崎では大浦・山手地区を外国人居留地とする。
この少し前、ローマ教皇は日本の開国が近いとみて、日本での再布教をパリ外国宣教会にゆだねていた。
1844年、宣教師はフランス軍艦で琉球に上陸して日本語を習得し、修好通商条約が結ばれるとジラール神父が仏領事館付きの通訳兼司祭として江戸に入り、横浜に教会を建てる。
長崎では、1845年、フューレ神父が教会建築に着手し、続いて1863年にプティジャン神父も長崎に入った。当初はフランス人のための教会だった。
大浦天主堂の献堂式(キリスト教で、新築の会堂を神にささげる儀式)と信徒発見。
1865年2月19日、献堂式が行われた。翌月の3月17日、天主堂の門の前にやってきた15人程度の人々の中から、一人の婦人が「ここにおります私どもは、皆あなた様と同じ心でございます」とプティジャン神父に告白し、聖母子像の前に案内すると「サンタ・マリアさまだ」と口々にささやいた。これが世界宗教史における奇跡「信徒発見」であり、禁教令から約250年後、浦上の潜伏キリシタンは神父と出会った。
最初期の洋風建築として国宝指定・・・建築学的にも貴重。
鋭い尖塔を持つ異国風建物は、「ふらんす寺」と呼ばれて大勢が見物に押しかけた。 天主堂内部は本格的なリブ・ヴォールト天井で、わが国最初期の洋風建築として、1933年に国宝に指定、戦後1953年に再指定された。フューレ神父とプティジャン神父の設計により1864年に建設された教会堂で、神父たちが自らこの新しい教会堂のイメージ図を描き、日本人大工に指導したことがわかっている。
工事は天草出身の大工・小山秀之進が中心となって進められ、身廊(しんろう)と側廊(そくろう)の天井は8分割のリブ・ヴォールト天井で、漆喰(しっくい)仕上げの下地は日本建築の伝統的な技法である竹小舞(たけこまい)を用いている。天主堂と合わせて旧羅典(らてん)神学校、旧長崎大司教館等が「大浦天主堂と関連施設」とされている。
大浦天主堂 | |
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情報 | |
用途 | 教会 |
着工 | 1862年 |
竣工 | 1865年 |
開館開所 | 1865年2月19日 |
改築 | 1875-1879年 |
所在地 | 長崎県長崎市南山手町5-3 |
座標 | 北緯32度44分3.0秒 東経129度52分12.5秒座標: 北緯32度44分3.0秒 東経129度52分12.5秒 |
文化財指定 | 国宝 |
指定日 | 1933年1月23日:旧国宝(現行法の重要文化財に相当)指定 1953年3月31日:国宝(文化財保護法)指定 |
大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である[注釈 1]。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者天主堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。
1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである[1][2]。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された[3]。
信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる[4]。
観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている[注釈 2]。
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