見せてください と 玄関から入った 新年のご挨拶の仲間と間違えられたのか 直ぐに左のが展示品ですか
もう・・・・失礼しました 外から見のように展示しています そうか ロビーだったのか で 外に出る前に
いいですか ハイどうぞ お待ちのお客様が席を立ち・・・・・・・・
ありがとうございます
くすりの町・道修町と大日本住友製薬のあゆみに関する史料展示スペース開設のお知らせ
大日本住友製薬株式会社(本社:大阪市、社長:多田 正世)は、3月25日に、大阪本社ビル内に創業時の史料等の展示スペースを開設しましたので、お知らせします。
- 開設の目的
当社は、1897年(明治30年)5月に大阪・道修町に設立し、100年を超える医薬品の研究開発、製造、販売の歴史を刻んできました。
江戸時代からくすりの町として知られる道修町とともに築いてきた100年を超える当社のあゆみを一般の方々に広く知っていただくとともに、多くの方にくすりの町・道修町への関心と理解を深めていただきたいと考えています。 - 史料展示スペースの概要
創業の精神、長井長義博士※1の製薬事業発展への貢献、純正医薬品の製造と供給、革新的な医薬品の創出に挑戦する当社の現在の姿など、道修町と当社のあゆみを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などにより、わかりやすく紹介します。
(1)開設日時: 2014年3月25日(火) (2)開設場所: 大日本住友製薬株式会社 大阪本社ビル1階ロビー
大阪市中央区道修町2-6-8(3)見学方法: 大阪本社ビル外側(ガラス張りの1階ロビー部分)から自由にご覧になれます。
屋外から閲覧することができるように史料等を展示しています。(4)展示内容: 海老江製薬所の再現模型
医薬品の製造に使用していた蒸留缶※2および濾過器※2
道修町と大日本住友製薬のあゆみに関するパネル(3枚)
革新的な新薬創出への挑戦に関するパネル(3枚)
当時の道修町や海老江製薬所等に関する史料の映写 など
http://www.sumitomocorp.co.jp/company/history/住友の歴史から | 住友商事
住友の歴史 江戸時代:住友の始まりと別子銅山
住友の歴史から | 住友商事
住友の歴史 明治時代以降:住友の発展期
維新の混乱を乗り越えて新しい西洋技術を導入、次々と関連事業に進出。
別子(べっし)銅山は、明治維新の混乱期に銅価格の下落や物価高騰による操業コストの上昇で経営難に陥ります。当時別子銅山の支配人であった広瀬宰平[1828-1914]は、洋式技術の導入など近代化を図る経営改革で、生産量を飛躍的に伸ばすことに成功しました。別子銅山の事業から林業、石炭、建設、機械、化学、電線、金属工業など関連事業に次々と進出していきます。また、江戸時代から続く両替業は、別子銅山の収益を元手に銀行、倉庫、保険、信託などの金融業に発展し、住友は鉱工業・金融業の二大部門を中心とする近代的な財閥として発展していきました。
住友に飛躍をもたらした別子銅山でしたが、そこには負の側面もありました。別子銅山の急激な近代化によって周囲の山林の乱伐が行われるとともに、製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となって森林の木々は枯れ、農作物に被害を与えていたのです。二代目総理事であった伊庭貞剛[1847-1926] は「別子の山を荒蕪(こうぶ)するにまかせておくことは、天地の大道にそむくものである」と考え、製錬所を沖合い20kmに浮かぶ無人島に移転するという一大事業に乗り出しました。さらに専門技師を雇い入れて植林事業を進めました。現在の別子銅山は、青々とした森林の姿を取り戻し、その姿は、私たちに「自利利他公私一如(じりりたこうしいちにょ)」の精神を思い起こさせます。
別子銅山図 (明治23<1890>年)
別子銅山 植林前
別子銅山 現在
四阪島製錬所
[住友史料館所蔵・協力]
住友商事の誕生と成長
戦後の荒廃と財閥解体の混乱の中から立ち上がった住友商事。
住友商事は、1919年に住友本社が中心となって設立された大阪北港株式会社(その後、住友土地工務株式会社と改称)をそのルーツとしています。
太平洋戦争終結時、財閥解体を迫られることは確実と考えた最後の住友本社総理事の古田俊之助は、(1) 拡張し切った各方面の事業を収拾し、人材の離散を防ぐとともに各人にできる限りの仕事を与える、そのために新しい事業を企画する、(2) 海外引揚者とその家族の援護を十分に行う、(3) 住友の事業をできるだけ滅ぼさずに転換し、将来、民族と国家の繁栄に資するよう運営する、との方針を掲げ、苦衷の中で下した決断が商事部門への進出でした。
1945年11月、日本建設産業株式会社と社名を改めて正式に商事部門への進出を決め、翌1946年1月に本店営業部を設置。終戦直後の混乱の中、わずか32名の素人集団としてその一歩を踏み出しました。社長の田路舜哉(とうじ・しゅんや、後の住友商事初代社長)は、「熱心な素人は玄人に優る」と声をかけ、社員を励まし続けたといわれています。
創成期の最重点課題は、経営基盤の確立にありました。田路は、与信管理制度の厳格な運用など堅実経営を実践するとともに、1950年、ボンベイ(現・ムンバイ)に初の駐在員を派遣、1952年にはニューヨークに米国法人を設立して海外への布石を打ちました。そして同年には社名を住友商事株式会社と改め、名実共に住友グループの一員として活動を広げていきます。
1960年代に入ると、次々と事業分野を広げるとともに、大型プロジェクト、資源開発、新産業分野への取り組みを促進しました。こうして、着実に総合商社としての体制を整えていったのです。
大阪北港本社
(住友総本店別館・旧帝国座)
[住友史料館所蔵・協力]
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