2/8 吹田市メイシアター中ホール 14:00
小保方(おぼかた)晴子さんからはじまりました。
理研、万能細胞を短期で作製 iPS細胞より簡単に
STAP細胞の発見を発表した理研の小保方晴子研究ユニットリーダー(神戸市中央区)
成功したのは理研の小保方(おぼかた)晴子研究ユニットリーダーらで、米ハーバード大学や山梨大学との成果。
iPS細胞は複数種類の遺伝子を組み込んで作る。小保方リーダーらは、マウスの細胞を弱い酸性の溶液に入れて刺激を与えることにより、様々な組織や臓器の細胞に育つ能力を引き出した。「刺激惹起(じゃっき)性多能性獲得」の英語の頭文字からSTAP(スタップ)細胞と名づけた。
生後1週間のマウスの血液細胞を使ったところ、STAP細胞になる確率は7~9%で、iPS細胞の作製効率(1%未満)よりも高いという。作製に要する期間も2~7日で、iPS細胞の2~3週間よりも短い。このほか皮膚や肺、心臓の筋肉などの細胞からも作ることができた。いったん皮膚などに育った細胞が、こうした刺激で万能細胞になることはありえないとされていた。
STAP細胞を培養したり、マウスの体内に移植したりすると、神経や筋肉、腸など様々な細胞に変化した。iPS細胞では困難だった胎盤に育つことも確かめた。研究グループはSTAP細胞が様々な細胞に変化することを証明できたと説明している。
人間の細胞からSTAP細胞が作れるかは不明。iPS細胞では、人間の皮膚や血液の細胞から様々な臓器や組織の細胞ができることが確認されている。研究グループは他の動物や人間の細胞から作る研究も始めた。
平塚らいてう
平塚らいてう | |
---|---|
平塚らいてう
|
|
誕生 | 1886年2月10日 東京府麹町区三番町 |
死没 | 1971年5月24日(満85歳没) |
職業 | 小説家、思想家、評論家 |
国籍 | 日本 |
代表作 | 『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』(1971) |
テンプレートを表示 |
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:奥村 明(おくむら はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動・婦人運動の指導者。
平塚は、特に、大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走したことで知られる。結局、その実現は、第二次大戦中ポツダム宣言により大日本帝国を占領した連合国軍の占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかったが、戦後は、婦人運動、反戦・平和運動を推進した。
1911年(明治44年)9月、雑誌「青鞜」発刊を祝って、平塚が寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、その後、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[1]。
なお、平塚の氏名表記は一定せず、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もある。また、1908年(明治41年)3月、塩原で、森田草平との心中未遂事件(塩原事件)でその名が知られると本名の「平塚 明」を使用したり、あるいは「平塚明子」で評論の俎上に上がることもある[2]。生年: 明治19.2.10.(1886)
没年: 昭和46.5.24.(1971)
評論家、女性解放運動家。東京生まれ。本名明(はる)。父会計検査院高官平塚定二郎と母光沢(つや)の3女。
明治36(1903)年日本女子大に入学するが、良妻賢母教育に失望、哲学書に親しみ、参禅し自我を追求する。39年卒業後、成美女子英語学校に通い閨秀文学会に参加。41年森田草平と塩原(栃木県)で心中未遂事件を起こし、世間の注目を浴びる。翌42年森田は事件を小説『煤煙』に描いて発表。
生田長江に勧められ、44年9月女性のための文芸誌『青鞜』を発刊。創刊の辞「元始、女性は太陽だった」は、今日に繋ぐ女権宣言となる。以後『青鞜』は女性解放思想の拠点となった。
大正3(1914)年、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうける。エレン・ケイの『恋愛と結婚』翻訳を契機に、その思想に共鳴、育児を社会的仕事と位置づけ、母性の尊重を主張した。7年、与謝野晶子、山川菊栄らと『婦人公論』誌上で、母性保護論争を展開。8年市川房枝、奥むめおらと初の女性による政治的市民団体・新婦人協会を結成。治安警察法案5条(婦人参政の禁止)改正を中心として対議会活動を行うが、2年後運動 から退く。
昭和5(1930)年高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加、『婦人戦線』に関与した。また、協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立。
第2次大戦後は,全面講和、再軍備反対の声明発表など、平和問題に発言。婦人団体連合会初代会長、新日本婦人の会代表委員なども歴任。終焉まで女性解放運動の先頭に立つ。
<著作>『平塚らいてう著作集』全7巻・補1<参考文献>井手文子『平塚らいてう』
(山口美代子)
(コトバンクより)
樋口一葉
このページの項目名には、環境により表示が異なる文字があります。公式の表記では「樋」の「辶」(しんにょう)の点が二つです。 |
樋口 一葉 (ひぐち いちよう) | |
---|---|
樋口 一葉(山梨県立文学館蔵)
|
|
誕生 | 樋口奈津(戸籍名) 樋口夏子 1872年5月2日 日本 東京府内幸町 |
死没 | 1896年11月23日(満24歳没) |
墓地 | 築地本願寺 和田堀廟所 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 青海学校小学高等科第四級 |
活動期間 | 1891年 - 1896年 |
ジャンル | 小説 |
文学活動 | ロマン主義 |
代表作 | 『大つごもり』(1894年) 『ゆく雲』(1895年) 『にごりえ』(1895年) 『十三夜』(1895年) 『たけくらべ』(1896年) |
公式サイト | 台東区立一葉記念館(樋口一葉) |
ウィキポータル 文学 | |
テンプレートを表示 |
樋口 一葉(ひぐち いちよう、1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生まれ。本名は夏子、戸籍名は奈津。
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている
市川房枝
日本の政治家
市川 房枝
いちかわ ふさえ
| |
---|---|
1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙で 東京地方区から初当選したときの市川房枝、世界通信より
|
|
生年月日 | 1893年5月15日 |
出生地 | 愛知県一宮市(旧・明地村) |
没年月日 | 1981年2月11日(満87歳没) |
出身校 | 愛知県女子師範学校 (現・愛知教育大学) |
前職 | 名古屋新聞記者 国際労働機関職員 新日本婦人同盟会長 |
所属政党 | (緑風会→) (無所属クラブ→) 第二院クラブ |
称号 | 参議院永年在職議員 愛知県一宮市名誉市民(旧・尾西市) |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
任期 | 1974年7月8日 - 1981年2月11日 |
選挙区 | 東京都選挙区 |
当選回数 | 3回 |
任期 | 1953年5月3日 - 1971年7月3日 |
テンプレートを表示 |
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家(元参議院議員)。
愛知県中島郡明地村(後の朝日村→尾西市。現在は一宮市)生まれ。戦前と戦後にわたって、日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)の名誉市民となる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。