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大空 名神高速道路 真上
のぼり 左 京都 右 西宮
くだり 左 西宮 右 京都
吹田市立博物館 3階 にて
リカちやんについて、無知で
リカちゃん(Licca-chan)はタカラ(現タカラトミー)製の着せ替え人形玩具。別称リカちゃん人形、フルネームは香山リカ(Licca Kayama )。累計出荷数は5000万体を超える。
1966年、元々ダッコちゃん等のビニール玩具のメーカーだった旧タカラ(旧タカラビニール - 1966年)は、そのビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していた。当初は米マテル社のバービーや、米旧アイデアル社のタミー等の他社の着せ替え人形用の、子供が持ち運びできるドールハウスを企画していたが、既存の人形のサイズに合わせると、ハウス自体のサイズが相当大きくなることが予想された。これが日本の住宅事情や子供の持ち運びに適さないとして根本的に企画が見直され、日本の事情に見合った大きさのドールハウスと、それに合ったサイズの独自の着せ替え人形として1967年に企画・開発されたものが本項のリカちゃんである。
企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学生という設定と、小さな女の子の手の平の中に収まる身長21cmという大きさと、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが、牧美也子の原案から考案され採用された。「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決定されたことになっているが、実際には発表号をずらして、読者でなくタカラ側が命名した[1]。日本人でも外国人でも通用する名前をということでリカとなった[2])。
親しみやすい仕様が日本の子供に受け入れられた事と、マテル社が生産拠点を他国に移して日本でのバービーの販売に力を入れなくなったという市場の追い風を受け、発売から2年後の1969年には日本での売り上げでリカちゃんがバービーを上回った。その年の年末商戦でも他の人形を圧倒し、それ以降、事実上日本の着せ替え人形の女王として君臨しはじめる。因みに、それ以前に売上トップを飾った着せ替え人形は、中嶋製作所(現ナカジマコーポレーション)の「スカーレットちゃん」とアイデアル社の「タミーちゃん」だった。
その後何度か売上が低迷した時期もあった。1993年から1995年まではバンダイの「セーラームーン人形」の売上が単年度でリカちゃんの売上を上回るものの、1996年には再び着せ替え人形売上のトップに返り咲く。
現在の日本でも「着せ替え人形のリカちゃん」の認知は極めて高い。あまり人形に詳しくない人が他社の着せ替え人形も全て「リカちゃん」とひとくくりにしてしまう事もある程で、日本における着せ替え人形の代名詞と化している。その高い認知から旧タカラ時代から現在のタカラトミーに至るまで、リカちゃんはメーカーのコーポレートアイデンティティ的キャラクターに位置付けられ、広報・宣伝の顔の1つとなっている。また、可愛らしく親しみやすく家庭的なキャラクターイメージから、多くの企業や公共機関のCMキャラクターとして採用されている。
基本的に小さな子供向けの玩具だが、長い歴史を持つため、大人のファンやコレクターも多く存在する。まれに大人向けの凝った仕様の商品が発売されたり、レトロ趣味の人の間で旧型のリカちゃんが高額で取引されたりすることもある。
低年齢層の子供の「ごっこ遊び」[3]による情操教育をテーマとする商品であるため、メインのリカちゃんと同時に多くの家族人形、ドレス、ハウス、小物が販売されている。メインターゲットは3~6歳の女児で、その年齢の女児が好むピンク色を多く採用した商品ラインナップであり、仕様的にも幼児が1人で簡単に着せ替えできるようにワンピース型のドレスが多い。マクドナルド、ミスタードーナツ、サンリオ等、子供の好む飲食店やキャラクターとのタイアップ商品も多い。旧タカラと旧トミーの合併後はディズニーとのタイアップ商品も発売された。
リカちゃんは年代によって改良が加えられ、1967年発売の初代と2009年現在のリカちゃんの仕様は大きく異なっている。ここでは2009年現在の、現行販売されているリカちゃんの仕様について解説する。歴代の仕様については歴史の項目を参照のこと。
胸部は ABS樹脂、腰部はポリプロピレン、腕・足・頭部はポリ塩化ビニル(ソフトビニル)、もしくは足はオレフィン系熱可塑性エラストマーから構成されている。腕・頭部のポリ塩化ビニルはゾル状からの射出成形、足はペレット状からの射出成形。近年、ポリ塩化ビニルに含まれる可塑剤の揮発による健康被害への対策として、使用する可塑剤が非フタル酸系に変更されたり、足の素材変更がされたりしている。腕の内部には、肌色のビニールでコーティングしたステンレス製の針金2本を中央部で合成ゴムで接続し、U字型に曲げたパーツが組み込まれ、この針金の変形の保持と、肩・腰・大腿付け根のジョイント部分の回転により、腕と足、首のある程度の可動やポージングが可能となっている。
リカちゃんの髪にはPVDC繊維が使われている。ごくまれにPVC繊維が採用されることもある。また、乳幼児の誤飲による窒息事故を避けるために、小さな部品には気道確保のための穴が開けられており、リカちゃんの靴や小物等には毒性の無い苦味成分が塗布されている。
人形の仕様は各商品によって細かい差異があり、様々な瞳の色やメイク、髪色・髪型のバリエーションが存在する。ほとんどの商品の製造は1回限りで、完売した場合は同じ仕様の商品が再生産される可能性は低い。
時代によってバリエーションがあり、一定しない。リカちゃんに設定がつくられたのは、怪獣図鑑を参考にしたものである。2010年度の日本タレント名鑑(VIPタイムズ社刊)にプロフィールが掲載されている唯一の架空キャラクターでもある[4]。理由はプロフィールがタレント並みに細かく設定されている、様々な会社のCMキャラクターとして活躍しており、タカラトミーがリカちゃんをタレントと認識してもらう為にタレント名鑑の掲載をお願いした。
リカがフランス人と日本人のハーフという設定は、発売当時にハーフの少女タレントの高見エミリー(現・鳩山エミリ)が人気だったことによる[5]。宣伝でも高見エミリーを使う予定があり、社内ではまだ名前が未定だったリカちゃん人形をエミリーと呼んでいたという[6])
『リカちゃんのアルバム』によると、将来は外交官のフランツ・シブレーと結婚することになる。
ここでは1997年に発売された、様々な年齢のリカちゃんを商品化したセット『リカちゃんのアルバム』に記載された設定、及びその延長上の設定を記載する。
公式設定ではリカちゃんの誕生日は5月3日。リカちゃんの人形が発売開始されたのは1967年7月4日とされるが、これについては幾つかの説があり7月1日ともいわれる。
同年 「カラーチェンジリカちゃん」、「カラーチェンジさくらちゃん」を、発売。
福島県小野町にあるリカちゃんキャッスル株式会社のこと。以下本項では「キャッスル」と呼称する。 タカラトミーのグループからは独立した会社である。旧タカラの福島工場として設立され、主にリカちゃんやジェニー等の人形の生産を行っている一部門だったが、後にタカラいわき工業株式会社として分社化。2006年2月、旧タカラと旧トミーの合併前に自社株買いにより旧タカラの連結から外れ[9]、社名をリカちゃんキャッスル株式会社に変更。更に2011年1月1日付けにて、社名をリトルファクトリー株式会社に変更した[10]。OEMとしてはタカラトミー社向け商品の製造以外に、株式会社スターの製品や株式会社アゾンインターナショナルの製品の製造を請け負っている(ヘッドの彩色と植毛のみ等、一部のパーツ製造のみの場合も含む)。これら他社商品を製造している様子も公開されており、後述の見学通路から見ることができる。
リカちゃん生誕25周年記念の日である1993年5月3日に、日本で唯一の人形のオープンファクトリーとして開設された。リカちゃんやジェニーを生産している様子をガラス張りの通路から見学できる。他に歴代のリカちゃんを展示したミュージアムや、リカちゃんキャッスルオリジナルの人形やお土産を販売する売店を併設している。「キャッスル」の名の通り、建物はヨーロッパの城のような外観となっている。
小野町の観光名所の1つでランドマーク的存在でもあり、キャッスルの開設に合わせてリカちゃんは小野町の「町おこしプリンセス」に任命された。以降、町とキャッスルは観光や地域雇用に於いて積極的な連携を行っている。キャッスル付近の橋にはリカちゃんの銅像が立っている。キャッスル側でも小野町に伝わる小野小町伝説にちなみ、十二単を着た「小野小町リカちゃん」を製造、販売している。なお、キャッスルの名誉館長は歴代の小野町町長が務める。以前はキャッスルの近辺にある仕出し弁当店で「リカちゃんおべんとう」が販売されていたこともあった。(当該店舗は2010年2月に閉店)
旧タカラは1996年頃より人形の生産拠点の中心を中国に移したが、それ以降もキャッスルでは独自に仕上げの良いリカちゃんやジェニー、そのフレンドドールを製造して直販している。2007年には中国に自社縫製工場を開設し、良質なドレスの生産も開始した。キャッスル製の人形には様々なバリエーションがあり、「キャッスルリカ」「キャッスルジェニー」と呼ばれる。
また2007年には「リトルファクトリー」というサービスを開始した。顧客がリカちゃんやジェニー等のヘッドを自由に選択し、そこに好きな髪型をリクエストして再現してもらう、いわば人形のセミオーダーメイドとも呼べるシステムと、顧客の手持ちの人形の顔の塗装や髪型を修繕する、人形のリペアシステムが組み合わさったものである。近年はキャッスルの店内に留まらず、キャラバン隊として従業員が全国を回り、東京等で行われるドールイベントにも積極的に参加して受注及び出張販売を行っている。
2000年10月7日にオープンした、東京都中央区にある玩具販売店「博品館TOY PARK」地下1階にある、リカちゃんとジェニーの専門店のこと。既製品に加え、リカちゃんCLUB67オリジナルの人形や人形用ドレスも販売されている。店名の「67」は、リカちゃんが1967年に販売開始されたことにちなむもの。
かつて富士急ハイランドにあった、ファミリー向けアトラクションの1つ。2002年7月21日にオープンした。人間サイズに再現されたリカちゃんハウスや、CGによりリカちゃんと一緒に写真が撮れるスタジオ、リカちゃんをイメージしたデザートが食べられるカフェ、売店等が併設されていた。 リカちゃんタウンのオープン以降、富士急行が高速バスの富士河口湖線(新宿‐富士五湖方面間)で、リカちゃんのラッピングバスを運行していた。 また、富士急ハイランドに隣接したホテル「ハイランドリゾート・ホテル&スパ」には、リカちゃんの世界観をイメージして内装からアメニティまでがトータルデザインされた客室「リカちゃんルーム」があった。 リカちゃんタウンは2009年1月12日、リカちゃんルームは2009年1月15日に営業終了した。
マキちゃん、ミキちゃんサイズの人形。
2009年1月2日放送回ぐるぐるナインティナイン「グルメチキンレース・ゴチになります!」で、岡村隆史が持参した「うなずきん ゴチになりますver.」に対抗して、森泉がタカラトミーに特別に作らせたリカちゃん人形から、商品化になったシリーズである。
1992年、リカちゃん生誕30周年記念ドールとして発売された。陶器製。パート1と2があった。
身長10cmくらいのリカちゃんのキーホルダーとストラップ。髪は植毛ではなく成型品だが、服は布製で着せ替えができる。
1992年、リカちゃん生誕25周年記念で初代リカちゃんが復刻された際に、初代リカちゃんをそのまま縮小したデザインで制作販売されたキーホルダーが最初。その後、タイアップ商品である琉球リカちゃんキーホルダー・ストラップが35万個も売れたのを受け、全国各地から様々なご当地リカちゃんキーホルダーやストラップが次々に発売されるようになった。現在ではどれぐらいの種類があるのか全て把握するのは困難な程に、全国で様々な企業や公共機関とのタイアップ商品が続々と発売されている。このキーホルダーやストラップだけを専門に集めるコレクターも存在する。
「リカヴィネ」を参照
1968年10月から開始された[13]、リカちゃんの声が聞けるテレフォンサービス。1967年[14]、タカラの本社の電話に一人の女の子から「リカちゃんいますか?」と電話がかかってきた事がきっかけで開設された[13]。当初は人間(初期は女性社員、後にアルバイト)が応対していたが、1968年10月からテープによる自動応答となる。公式にはこの自動応答となった時期をもってリカちゃん電話の開設としている[15]。2002年時点で延べ通話数は1000万通話を超え[14]、2007年時点で月に約1万件の電話が来る[13]。電話番号はサービス開始当時のものから変更されている。現在の番号は外部リンクを参照のこと。
なお、タカラトミーも出資している東京都葛飾区のコミュニティFMかつしかFMでは、朝の番組「モーニングジャーナル」でリカちゃん電話のコーナーが設けられている。
ここに記載した以外に、講談社や小学館の幼児誌に不定期にリカちゃんの漫画が掲載されることがある。
ぱくりもぱくり・・アップは後ほど ダビングに大わらわ もう 午前9時25分
平成24年11月10日(土)
10時には吹田市立博物館 2階 講座室へ(平成24年11月11日(日))
●昼休み以外の09:30~17:15★展示解説★神戸女子大学リカちゃんハウス制作チームメンバー*リカちゃんハウスを中心に展示物の解説をします!展示進化のようすもお楽しみください●10:00~16:00にぎわいイベント「みんなで暮らすニュータウン~障がい者も高齢者も共に~」くわしくは→こちら「重度障がい者のくらし」上映、高齢者疑似体験元盲導犬の 「ハイジちゃん」が来館!●14:00~15:00講演会「くらしに夢や豊かさをもとめて26年―あったらいいな・・・を市民参加で具体化―」講師 NPO法人友-友 代表理事 小林房子さん
11月10日 13時から14時の予定が30分近く延長。内容豊かなトークショーでした。 発言内容の詳細は鋭意編集中・・・しばらくお待ちください(ZZZ…)≪業務連絡≫担当のかたへお願い:出演者のお名前を掲示していいのでしたら・・・お知らせください。だめならせめてイニシャルをお知らせください。(おーぼら)
★3階広場は異文化交流 食べ物編【ベトナム】 【ロシア】 ★3階広場は異文化交流 エンタメ編【ペルーのケナ :ペルーの竹笛】 【イスラムのおどり】 【】 (おーぼら) 業務連絡:エンタメ編の詳細をご存知の方、原稿をください。
11月10日 10時から講座室ではニッポン建設映像祭 番外編 in 千里ニュータウン 解説はアンダーコンストラクション・フィルム・アーカイブ(UCFA)代表の吉永健一さん。プロジェクトDでご活躍の吉永さんですが、きょうはこの立場で登場。 UCFAはこんな活動をやっているグループですが、このような「建設映像」には、●当時の建築が写っている●当時の建設技術、工法が写っている●当時の風俗、生活が写っている…そしてこのような映像はフィルムのままひっそり倉庫に眠っていることも多いため、発掘してデジタル化しないと劣化、喪失してしまう危険性がある…ということでこのような活動を展開しているそうです。 ■今回の上映作品 ひらけゆく千里丘陵 住宅地区開発の記録―計画編― [1961年、20分] ひらけゆく千里丘陵 住宅地区開発の記録―建設編― [1962年、15分] 新しい都市(常盤平団地の建設記録)[1959年、34分] 集団住宅建設記録(千里山団地の建設記録)[1956年、30分] 千里ニュータウンと、「プレ・ニュータウン」的な初期の大規模団地の建設記録です。用地買収や反対運動などの様子も生々しく記録されていました。 先日の片寄さんのお話にもあったように、このような多くの人たちの努力と葛藤があって「新しい町」は今日あるのだ…と思うと胸に迫る迫力の映像でした。(てつ めいぎゃる okkun)
追加・変更していきますが 速報が・・・・
6時頃 中学校のコーラが場の雰囲気を 50年に一度の 光アート
「お~ぼら」さんと・・ ほぼ最後1枚に近い
点火の直前 右端↓ カメラを抱えるお方 万博(桜)の花咲おじさん・・今回は、「あかりおじさん」・・どこでもここでも・・人徳多きお方です
ハィ ・・・・・・・・
千里山から中野さん駆けつけ
カチットで着火 点いた !!
大津ご夫婦 うれしい 記念や
竹・コップスペース
おめでとうございます 武藤さん 谷川さん 光も明かりも別嬪さんも ・・・・
別嬪さんのお名前は 千里(ちさと)さんとちゃうの・・
そうや 世界のひととこの喜びを
・・・・・・メールで届いて あっち、こっち HPをうろうろ 平成24年11月11日(日) 午後9時21分・・・・・・・・・
よく調べると・・・ごめんなさい ミゼット ほい の吉田さんでした・・・ 大阪千里ニュータウン一周ドライブ(誰ですか、脱帽 私もこの気持ちのよい映像を作りかったです)・・・吉田さんは 一周ドライブの後にアップ・・・谷川さんと大津さんはミゼットにのる・インタビーアーのこの方をご存じかも・・・11/11の今日、すいはくで又千里入居一号の方に会いました・・・・11/17の人前結婚式に是非と声かけました 大津さん・谷川さん楽しみにして下さい
「高層化に歯止めがかからなくなり、景観が変わってしまう」。2001年11月、府住宅供給公社が吹田市佐竹台の賃貸団地を5階建てから14階建てなどに高層化する計画を策定したあと、幅6メートルの車道を挟んで立つ分譲集合住宅から、反対の声が上がった。
同公社が千里ニュータウンで所有する13か所の賃貸住宅で最初の建て替えだった。1963~66年建築でエレベーターがなく、高齢化が進む同団地の住民たちは早期着工を望んだ。
車道の両側で住民たちが対立した当時について、同団地に住む佐竹台地区連合自治会長の谷川一二さん(74)は「一時は話し合いの場もなく、険悪な雰囲気だった」と語る。
□ ■
和解のきっかけとなったのは、この車道だった。もともと車社会を想定していなかった同ニュータウンの住宅地内では、歩道が整備されていなかった。同公社は、同団地側に幅3メートルの歩道を設けるため、敷地を後退させる計画を立てていた。
「高さは譲るから、こちら側にも歩道をつけて」。2004年初夏、分譲住宅の代表者から谷川さんに提案があった。谷川さんも「子どもたちを事故から守るには必要だ」と賛成し、同公社と約1年にわたって交渉。分譲住宅側にも幅3メートルの歩道を整備できるよう、同公社が用地を提供することで合意した。
■ □
同団地は昨年2月に一部の建て替えを完了。1階部分の一部は通路になっており、付近の住民が阪急南千里駅への近道にする。新築した立体駐車場の屋上には緑地を造り、子どもたちが遊びに来る。いずれも谷川さんらが「周囲と絆(きずな)が深まる住宅に」と、同公社と話し合いを重ね、実現した。
「飲みに行きませんか」。今も谷川さんの携帯電話には分譲住宅の住民から誘いが入る。建て替えで得た何よりの成果だ。(おわり、この連載は中村隆が担当しました)
■まちづくり指針 共有
千里ニュータウンも港北ニュータウン(横浜市)も、目標をコミュニティー形成に置き、外部空間に工夫を凝らした。ただ、港北ではグリーンマトリックスと呼ばれる緑道網が公共用地として永久に担保されるが、千里の団地や地区センターの広場は喪失されてしまう。
千里の将来を考える時、谷川さんの例は重要な示唆を与える。完成した団地では新しい通り抜けの空間で、団地や周囲の人々の出会いが生まれ、隣の街区の建て替えに踏襲される。空間の価値を、市民や開発者、行政が現代なりの方法で引き継ぐ。これが千里ならではの継承の形だ。
この精神は、吹田市が策定した「まちづくり指針」の中にある。指針には地域ぐるみで千里の環境をよくしようという、開発者と市民自らに語りかけるメッセージが込められている。
谷川さんの団地の建て替えでは、反目していた住民が互いの団地の間の環境をよくするという目標を共有し、指針の精神を期待以上の方法で具体化した。一方、連載3回目に挙げた南センタービルなどでは次の世代に文化を残したいと願う人々と、バリアフリー建築への建て替えを願う人々が将来像を共有できないまま再開発が進む。団地や地区センターで人々の間に共有される千里の将来像とは何か、市民や行政、開発者と一緒に追求していきたい。(建築・都市デザイン)
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そのご・・デジカメ バッテリー切れ・・・ 時計はなくすは、 溝に落ちるは・・・ >
所は、-Japan- 大阪(OSAKA)は吹田(SUITA)市 - 吹田市立博物館 3階 広場
千里ニュータウン半世紀展
イベント
みんなで暮らす千里ニュータウン
多様な文化の中で共に暮らそう
-企画/運営:草の根国際交流の会 協力:吹田市国際交流協会-
とっても あっさりしてて おいしかった のは 日本風に言えば 「ロシアのカリントウ」と言いたい
ttp://ameblo.jp/pirogijp/
11/9 夕刊
11/10 朝刊
当日(11/17)は、日本一 晴れ!!
会場 何のイベント
世界初の連発や!! 11/9 夜 実行委員会 いい日は華やかにや 七五三でしょ アハハ~
千里NTも世界初 博物館での結婚式も世界初(自画自賛) ・・・・ 萌え・萌え 燃えすぎ 誰か止めて!!
振る舞い 餅
お土産は 紅白餅 全国の市民の皆さんに 数に 限りで・・こんなも・・・
ドンなんかな~
吹田市立博物館の2階玄関・・階段があります 勝手にイメージしました テル テル坊主 テル坊主 !!
ご夫婦2組の 応援団も / きょうちゃん が某日撮影 電話しょう 神戸ルミナリエで撮影依頼されお人
それ 電話・・
11/8 夕刊
11/9 朝刊