応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった[1]。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した[2]。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
(グレゴリオ暦)1467年 - 1477年日本の歴史上屈指の大乱・応仁の乱
将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いが絡み、その配下にある全国の武士をも巻き込んで十一年に渡って行われた戦いは、京都を焼き尽くしました。
今回は、奇跡的に残った大報恩寺(千本釈迦堂)をはじめ、戦場となった場所や、ゆかりの人々の跡を巡る約4時間前後の歴史散歩です。
時間がたっぷりとあるなら、西陣界隈や上七軒のの京都らしい町並みも楽しみたいですね。
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/ouninnoran.htm
第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府
○跡継ぎ選びを間違えると・・・ |
代表例は次のとおり。
ところが、そのうちに足利義政の息子(足利義尚)も誕生してしまった。
当然のことながら、日野富子は「もちろん次の将軍は我が息子・・・」と考え、足利義視も「将軍になる準備はいつでもOKですよ!」という状態。ここで義政が「こうだ!」と決断を下せばまだいいのですが、そうではない。そうすると、お互いに有力な味方を得ようとします。
そこで、足利義尚側を山名持豊(宗全)を中心としたグループが、さらに足利義視を管領の細川勝元を中心としたグループが支援。実は、細川勝元の嫁さんは山名宗全の娘で、元々両者は仲が良かったんですけど、互いに守護としての領国を多く持っており、どちらが幕府の主導権を握るかで対立を始めていたのです。
これに畠山家、斯波家などの、やっぱり将軍家と似たような感じで起こった家督争いが合体。さらに、各地の守護に「味方して!」と要請し、京都に軍隊が集結してくる。こうして爆発してしまったのが、応仁の乱です。足利義政にしろ、足利義視にしろ、「戦争するんじゃない」と未然に警告は出したんだけど、意味はありませんでした。
さて、初期の対立構造はこうなってます。
細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など
細川勝元は、本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷、花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある、自分の屋敷を本陣としたことから、その位置関係より「東軍」「西軍」と呼ばれるようになります。
さて、1467年5月。ついに戦いがスタートします。
まず、最初の段階で東軍が勝利を収め、将軍の足利義政と、足利義尚を迎えることに成功。緒戦では東軍が西軍に先制パンチをかけますが、同年8月、西軍に周防・長門などの守護である、大内政弘率いる大軍が援軍にやってきます。そして同年10月、相国寺の戦いで西軍は東軍を大いに打ち破りました。
そして、京都を焼け野原にする戦闘が各所で行われたのち、しばらくは「にらめっこ」状態になります。そのうちに、「いつ俺は将軍になれるんだ」と不安がっている足利義視を、なんと西軍が「うちにおいで」と誘い、これに成功。あらあら、足利義尚と義視が逆転しちゃいます。
一方、京都で戦争をやっている間に、自分の本拠地では一揆が発生するなどして、帰国するのもの多数。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者の一人である、管領の斯波義廉も京都から撤退して帰国。大内政弘も「帰国しなければ」と帰り支度はしたものの、山口に帰るためには、播磨の赤松氏の領内を通過しなければいけない。・・・やむをえない、東軍に降伏じゃ~。
なんてやっているうちに、細川勝元と山名宗全が相次いで死去。それからまもなくして、みな帰国して応仁の乱は終結しました。なお、1477(文明9)年まで争いは続いたため、応仁・文明の乱ともいいます。そして、足利将軍家の場合、結局は足利義尚が第9代将軍となりました。もっとも、将軍に力は無く、本来将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落・・・。
結局、室町幕府の権威は地に落ちる。さらに、地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、中には守護を追い出すような例も出てきます。こうして、戦国時代とも呼ばれる騒乱の時代へ、全国が突入します。
ちなみに、この応仁の乱の間、足利義政はいい気分なもので、庭園作りや和歌に熱中し現実逃避。その集大成が、京都の銀閣ですね。また、妻の日野富子は、だらしない夫に代わって、関所などからの税金などをせっせと溜め込み、後世から批判のされる種となっています。
○中央にばかり気を取られていると |
さらに、そもそも守護が追い出されて、部下が政権をのっとる下克上(げこくじょう)もしばしば発生。
その代表例としてよく言われるのが、美濃の守護である土岐頼芸を追い出した、斉藤道三(さいとうどうさん)。その出自は不明ながら、元々は京都の油商人だったとも言われていますが、頼芸の家臣になり、気に入られて出世したところで、軍事クーデターを起こして追い出したというわけ(親子2代で成し遂げたという説が最近では有力です)。
ちなみに後年、娘婿の織田信長を大層気に入り、何かと支援していましたが、自分の息子である斉藤義龍に謀反を起こされ、戦死しています。
それから、小田原北条氏の祖として名をはせた伊勢長氏。
室町幕府の家臣である伊勢氏の出身といわれていますが、妹が駿河の守護、今川義忠の妻になっていた縁で、今川家のお世話になります。そして、今川義忠死後の相続争いに介入し、妹が産んだ子を跡継ぎとすることに成功。その功績で興国寺城を得ることに成功します。
ここからが伊勢長氏の腕の見せ所です。
まずは1491(延徳3)年、堀越公方である足利政知(義政の弟)が亡くなり、政情不安定だった伊豆へ攻撃開始。足利茶々丸(政知の子)を殺害し、堀越公方を滅ぼして、これを占領。さらに1495(明応4)年には扇谷上杉家の家臣、大森藤頼を追い出して、小田原城を占領し、これを本拠地にします。さらに、相模(現在の神奈川県)の守護である三浦義同(よしあつ)を滅ぼし、相模国を支配するようになります。
まさに勢力拡大の見本的存在です。
ちなみに、息子の氏綱の頃から、鎌倉ゆかりの「北条氏」を名乗るようになります。一部には「鎌倉時代のの北条氏の子孫だから」と考える向きもありますが、多くの研究者は「鎌倉時代の北条氏とは血縁関係はなく、わざと”北条”の名前を持ってきた」と考えています。
ところで、浄土真宗本願寺派による一向一揆(いっこういっき)は、守護たちの頭痛の種でした。とくに、1488(長享2)年に発生した加賀の一向一揆などが有名ですね。なんと、守護の富樫政親(とがしまさちか)が倒され、約1世紀にわたって本願寺による支配が続いたのでした。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。